創作活動には嫌われる勇気がいる

 Twitterをしていると「歌い手志望です」という表現を見かけます。歌い手というのは、ニコニコ動画での『歌ってみた』というジャンルに投稿している人を指すのでしょう。この言い回しを見る度に違和感を抱きます。
 私は別に歌い手でも何でもなく、そもそも自分で歌って投稿する気すらない人間です。だから、こんなことを気にするのは論外かもしれません。しかし、気になるのです。
「歌い手です」と自己紹介するなら理解できます。『歌ってみた』に動画を投稿すれば、その人物は、その瞬間から歌い手になるというのが私のイメージです。歌い手を本当に志望しているなら何でもいいから歌ってみた上で、それをアップロードすればいい。そうすれば“歌い手志望”を卒業して“歌い手”になれるはずです。
 にもかかわらず、巷には歌い手志望が多く存在します。
 ニコニコ動画での動画アップロードは基本的に無料です(無料会員だとプレミア会員より容量は少ないですが)。録音機材もアルバイトでお金を貯めれば手の届く価格で、購入できなくはありません。では、足りないのは録音する時間なのか、それとも雑音を気にせず録音できる環境なのか。
 人によって置かれた状況は様々なので一概に何が原因とは言えないでしょう。まだ小中学生だからアルバイトできないとか、忙しい毎日を送っているからどうしでも時間ができないとか色々な理由が想像できなくもない。

 けれど“歌い手志望”の人々に足りないのは“嫌われる勇気”なのではないかと私は思うのです。
“嫌われる勇気”という言葉は心理学者の岸見一郎氏とフリーライターの古賀史健氏の共著『嫌われる勇気』という本からお借りした。
『嫌われる勇気』の中ではアルフレッド・アドラーの思想についてが、青年と哲人の対話という形で語られています。アドラーはフロイト、ユングと並び「心理学の三大巨頭」とも言われる人物で、自己啓発の源流ともいえる教えを数多く残しました。アドラーの思想はアドラー心理学と呼ばれ、人生における悩みを解きほぐすのに大きな意味を持ちます。

 アドラー心理学では、目的論で人の言動を説明します。
 例えば、強い不安に苛まれて引きこもっている人がいたとします。この場合、普通は「過去に何か辛い思いをしてトラウマができた。そのせいで不安を抱くようになり引きこもってしまった」と考えます。このような考え方は原因論といいます。つまり「辛い思いをしてトラウマができた」という原因が、「引きこもる」という結果を生み出しているとするわけです。
 しかし、アドラー心理学における目的論では、このような考え方を否定します。前述のケースの場合「外に出たくないという目的があるから、不安という感情を作り出している」と考えるのです。もちろん、この場合において本人が仮病を使っているわけではありません。しかし、アドラー心理学ではトラウマなどの原因論で人の心を説明するのを否定します。
 目的によって人は行動するかしないかを決めるのです。
 これを先ほどの“歌い手志望”から脱せないという状況に当てはめると「歌い手になれない原因があるから歌い手になれない」のではなく「歌い手なりたくないという目的があるから歌い手にならない」ということになります。

 では、歌い手志望が歌い手になりたくない目的とはなんなのでしょうか。そこで鍵となるのが“嫌われる勇気”です。
 嫌われる勇気は、あるいは傷つく勇気といってもいいでしょう。
 歌い手になる気は微塵もない私ですが、ニコニコ動画で歌い手さんの人の作品を鑑賞するのは好きです。そういう動画を観ていているとわかるのですが、有名な歌い手さんほど批評的・批判的なコメントがついて回ります。有名になることと嫌われることは不可分であるともいえる状況です。
 あるいは、動画を投稿してみたがいいけれど、再生数が伸びないということもあるでしょう。この場合、叩かれるよりも傷つくかもしれません。人は誰しも自分を特別な存在だと思っています。にもかかわらず再生数が伸びないのは他者から認められていないのかと惨めになるのは必死です。
 私は歌い手ではなく物書きですが、作品が評価されないときの辛さは痛いほど理解できます。渾身の力作を自信満々にネットノベルのランキングサイトに登録したけれど、大して評価されていなかったときの気持ちに近いのだと思います。
 自分では特別な思い入れのある作品あればこそ、評価が低いと傷つくことになります。まるで自分が人々から嫌われているような悲嘆にくれることもあるでしょう。
 これは歌だろうが、小説だろうが、イラストだろうが、漫画だろうが、フリーゲームだろうが創作活動なら同じことであるはずです。
 だから、“歌い手志望”の問題も、本当は“歌い手志望”だけの問題ではありません。何かを創作したいのに足踏みしている人すべての問題なのです。
 純粋に何かを表現したいならば嫌われる勇気が必要です。それでなくては、何も前には進みません。

 では、本当に望ましい創作の態度とはどのようなものなのでしょうか。
『嫌われる勇気』には人生について、このように書かれています。

人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。

 創作活動の真髄も、これに尽きると思います。
 ダンスを踊る人にとってダンスを踊ること自体が喜びであるように、創作活動をする人は創作活動そのものを喜びとするべきです。
 人からの承認を目的にすると話がややこしくなります。恥ずかしながら私の場合もそうです。「これ、人に受けないよな?」と思って執筆を途中で投げた話がどれだけあることか。公表はしていませんが、途中で投げた話がお蔵入りフォルダの中には大量に存在しています。
 創作という行為自体を楽しめる純粋さは、何よりの宝物です。
 何かを創作するということは、ときに道なき道を目隠しで歩くようなものです。前も後ろも見えないことなんて日常茶飯事です。そんな中でできるのは今できることに集中することなのです。
 将来的にどうなりたいかはひとまず脇に除けて、今の課題に真剣かつ丁寧に取り組む。その結果がどこにたどり着くかはわかりませんが、そんな創作活動ができればその時間は黄金のように尊い時間になるはずです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする