ソーシャル抜きのSNS

『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』(著:大塚英志)を読了。
 って、タイトル長すぎます。これはライトノベルでも意識しているんでしょうかね?

本書の概要

 本書ではまず、日本の近代は社会を作り損なっていると説きます。その上でSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)を批判します。
 SNSの登場により個々人の社会参加の敷居が下がったと世間では言うけれど、それは違うんじゃないの? というわけです。
 実際のところFacebookもTwitterも個人について語るためのツールになっているのではないか? あるいは企業のマーケティングに使われるだけの金儲けツールになっているだけじゃないのかと筆者は指摘するわけです。

ソーシャル社会?

 本書においてSNSはソーシャルでありながら社会的ではない点に触れています。「ソーシャル(social)」は「社会的な」という意味の英語なので、これを別個のものとするのは奇妙な話です。
 とはいえ、「ソーシャル」という言葉と「社会的な」という言葉では、重みが違って聞こえてくるのはわからなくはない話です。「社会的な」と言われると重々しい雰囲気を抱きますが、「ソーシャル」と言われれば比較的カジュアルな印象になります。
 ソーシャルと社会という言葉に関していえば『新IT時代への提言2011 ソーシャル社会が日本を変える』という書籍があると本書では触れています。
「ソーシャル社会」という造語は極めて不思議な響きです。和訳すると「社会社会」と言っているようなものです。こんな造語ができるのも、ひとえに「ソーシャル」と「社会」の間に隔たりがあるが故と言えるでしょう。

ソーシャルメディアは社会的か?

「SNSで社会参加が容易になる」という考え方は、現段階では理想論に過ぎないと言わざるを得ない。そんな風に私は考えます。そもそも、世間は気にしても社会は気にしないのが日本人ってものですし。
 それはネットにおける影響力のあり方を見れば一目瞭然です。
 様々な人の意見が集まって、より洗練された集合知に近づくのが理想のネット社会だとするならば、現実は理想とは離れつつあります。
 大きい声はより大きく、小さな声はより小さく。それが今のネットのあり方であり、いうなれば集合愚といえる現象が起きています。なので、ソーシャルメディアが社会的とは言い難いのが現状です。

エンタメの可能性

 ソーシャル抜きのSNSしかないというのは、中々に根深い問題だと思います。
 とはいえ「社会的なもの」というのは往々にして真面目すぎでお堅い話になりがちです。
 社会的なものをストレートに伝えるのではなく、例えばエンタメというオブラートに包んで提供するなどの工夫がこれからの時代には必要なのかもしれません。

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