「自分」という存在

 物語作品を描く際に、登場人物が不幸に見舞われることは少なくありません。
 例えば、

  • 平和主義者な人物か争いに巻き込まれる
  • 恋人がほしいのにモテない
  • 贅沢な暮らしがしたいのにお金がない

 など登場人物が不幸だと感じるシチュエーションはいくらでもありうるでしょう。
 しかし、そもそも不幸とは主観的な尺度です。周りからしたら十分に恵まれている人が自らの不幸を嘆くことは現実でもよくある話です。

「不幸」とは何か?

 シェイクスピアは以下のような言葉を残しています。

世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ。
(Nothing either good or bad, but thinking makes it so.)

 問題なのは、その登場人物が持っている価値観や信念と置かれた境遇の関係です。
 前述の例で言えば、平和主義者とかけ離れたバトルマニアなら争いに巻き込まれても不幸には感じません。一人で生きると決めた人間ならばモテない自分に失望しません。慎ましい生き方がしたいなら金持ちにならなくてもいいやと考えるでしょう。
 臨床心理学者カール・ロジャースの提唱した考えに自己理論というものがあります。この考えによれば、人間には自己経験と自己概念があるといいます。
 自己経験とは、その人の人生における全経験のことです。これまでどのような体験をして、今どのように生きているかを意味します。
 一方で自己概念とは自分についての認識です。自分がどのような人間であるのか、あるいはどのような人間であるべきか、どのような人間になりたいかがこれにあたります。
 自己理論における自己経験と自己概念は、以下のようなベン図で表すことができます。
3102012-01

 左の図では右の図に比べて自己経験と自己概念が一致している部分が大きいです。自分とはこういう人間だという認識と実際の経験が噛み合い感じる不幸は少ないといえます。
 一方、右の図は左の図に比べて自己経験と自己概念が一致している部分は少ないです。この場合、自らに関する認識と実際の経験に齟齬が生まれ不幸を感じます。
 物語のキャラクターの成長とは、往々にして自己経験と自己概念の不一致の解消といえます。それを実現するためのパターンには以下のものがあるでしょう。

  • 自己概念に自己経験を近づける(頭でっかちにならずに経験を積む)
  • 自己経験に自己概念を近づける(自分の素質を知り無謀な目標や野望を捨てる)

自分の影

「自分」という存在にフォーカスする際に有用な考え方にユング心理学における影(シャドウ)という概念があります。
 影とはいわば普段の自分が押し殺しているもう一人の自分です。
 例えば、

  • いつも傲岸不遜に振舞っているけれど本当の自分はもっと臆病だ
  • 周りから真面目な人間と評されているが本当はもっと奔放に振る舞いたい
  • みんなから可愛いともてはやされるけど本当の自分のキャラと違う

 などこの場合、本当の自分と対人関係での自分が食い違っています。
 社会生活を送る上では、ある程度は本当の自分を押し殺し外向きの仮面をつける必要もあるでしょう。しかし、常に仮面をつけたままで本当の自分を無視し続けると思わぬしっぺ返しをくらいます。周りから真面目で誠実だと思われていた教師や警察官がとんでもない不祥事を起こした際に「自分を抑えられなかった」とか釈明するのはよくある話です。これはユング心理学的に見れば「自分の影を抑えられなかった」ということです。
 自分の影とは、自分にとって直視したくない対象で、それを行うには相当の覚悟を迫られます。それは最大級の試練とも言えます。RPGのラストボスがもう「一人の自分」とも呼べるような自分とよく似た境遇を過ごした人物(同郷の出身者、兄弟など)である物語は少なくありません。
 もう一人の自分と遭遇したキャラクターはその影と戦います。影を克服する場合、影との戦いには以下のようなパターンがあります。
①キャラクターが影を完膚なきまでに打ち勝つ
②キャラクターが自らの影を受け入れる
 パターン①の場合は自らの影を完全否定する場合です。「私とお前は違う。私はお前のような間違った道を歩まない」などの台詞を突きつけ相手に引導を渡します。
 パターン②の場合は自らの影を肯定し、自分の一部として共に生きる覚悟をする場合です。「私はあなたで、あなたは私だ」みたいな台詞を優しく影に伝える場合がこれです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする