アルカナ・ナラティブ/第2話/07

 屋外の空気は、身を切る冷たさ。
 吐く息が白い。
 闇と静寂が辺りを支配する。
 日の出までには程遠い、世界から隔絶された夜の底。
 先生を無事に煙に巻いた安堵から俺は一息つく。一方周防はどうしてよいか分からず一人棒立ち。
 未だ剃刀を握っている。現在の用途は、自傷用ではなく、むしろ護身用。
 周防は三メートルほどの間合いをとり、身を強張らせている。
 夜中にいきなり拉致されて、外に連れ出されたら、そりゃ当然の反応だ。
「あの先生から助けてくれたのは感謝する。でも、こんな夜中に外に連れ出すなんてどういうつもり? 変なことしたら切るわよ」
 露骨に警戒心をあらわにする周防。精一杯の強がり。
 剃刀を竹刀でも握るがごとく中段に構える。余程変なところを切られなければ死にはしないが、必死の形相で刃物を向けられるのは、良い気分ではない。
「変なことなんてしない、と言えば、お前なら信じてくれるよな」
『嘘か否かわかる魔法』は、こちらが誠意を持って接する分には、とてもありがたい魔法だ。言葉と説得力が等価で結ばれるのだから。
 おずおずと、剃刀は中段の構えから、下段の構えに。
「どうして翔馬は、あんなところにいたの?」
 と周防。
「あんなところっていうか、目的は外だ。そう、つまりここが目的地。途中でトラブルがあったものの、屋外脱出成功さ。しかも、周防のおかげでオマケつき」
 クルクルと、六組担任から渡された鍵束を右手で弄ぶ。
 人生万事塞翁が馬。これさえ持っていれば、外に居ても締め出される憂いはない。
「外? この辺りに何かあるの?」
「この辺りには何もないさ。あるとすれば何光年も先の彼方。空を見てみな」
 俺は天を仰ぐ。
 それに続いて周防も。
「これは……」
 感嘆の声を漏らす周防。声に出さなかったが、気持ちは俺も一緒だ。
 頭上には満天の星空。
 夜の黒に煌めくは無数の星々。
 地上が寂寥とした闇に包まれている山奥だからこそ、鑑賞できる光の芸術。
「綺麗……」
 静かに、惚けるように周防から呟かれた言葉。心とか魂とか、そういった理屈よりも深くにある部分で紡がれた、純粋な賛美。
『空に何があるのよ』とか不躾なつっこみが飛んでくるかなあ、と身構えていたが、擦れていない周防に、ちょっと感動。
「もしかして、この星を観るために一階まで降りてきたの? 先生に見つかる危険まで冒して」
「見つからない自信はあったんだけど、まさか先生以前にお前に見つかるとはねえ」
 いやはや、本当にお恥ずかしい。
 裏でこそこそ動くのは、それなりに自信があったのだが、慢心は失敗を招くものだ。
「我慢しようとか思わなかったの?」
「全然。思い立ったが吉日の精神をフルに生かしてみました。リスキーなミッションだったけど、危険を冒すだけの価値はあったと確信している」
 星々を眺めながら言った。
 天体マニアってわけではないし、むしろ、地学や天文学には明るくない。当然、星の名前も星座の配置も知識にはない。
 それでも、闇の中で光を求めてしまったのだ。
 ならば、先生の言うことを従順に聞く良い子ちゃんはこっそり中断。外へ抜け出すしか手は無い。
「ふふふ、確かに星は綺麗ね。でも、翔馬って相当変わってると思う」
 微笑む周防。
 ……こ、これが就寝前にクラスメイト(男子)が見たい見たいと騒いでいた周防の笑顔か。まさか、俺が目撃者第一号になろうとは思わなんだ。
 みんなの見立ては正しく、通常の感性の男子ならば蕩けてしまうこと受け合いだ。
「変わってるのはどっちだよ。こっちからすれば、自傷だって十分不思議な癖だよ。切ったら痛いし、痛いの嫌じゃん。周防はそういうの大丈夫なのか?」
 思い切って訊いてみた。なるべく批判的にならないように言葉を選んだつもりだ。
 話を本題である周防のリストカットに持っていきたかった。
 周防の笑顔を見て、チャンスは今しかないと思った。笑うっていうのは、警戒心が緩んでいる証拠だ。緩んだ警戒心の隙を突こうっていうんだから俺は卑怯だ。認めよう。
 鬼の形相で、剃刀で切りつけられてもしかたないと覚悟はしていた。だが、周防はそこまで人の道を踏み外していなかった。
「痛いのは……嫌かな。でも、切らなきゃどうしても落ちつかないときがある」
 微笑みは途端に暗雲に覆われて、俯く周防。
 罪悪感に煩悶する俺。けれど、賽を投げてしまったのだから、最後まで続ける必要がある。
「今日もか?」
「うん」
 原因については心当たりが二つ。
 一つ目は、バーベキューのときの彼女と班のメンバーの様子。
 どこかぎこちなく、班の連中との隔たりがあるように見えた。避けているのか、避けられているのかは定かではないが。
 そして二つ目。
「名壁ってヤツと、関係があるのか?」
 ここに来たとき、やたらと周防が怯えていた相手。そして、怯える周防を楽しそうに笑っていた男。
 関連性を考えないのはザルだ。
「名壁は……」
 言い淀む周防。しばらくして、また黙り込んでしまう。
「実は元カレだったりして」
 思い切って訊いてみた。
「……そうだよ」
 肯定し、周防は更に続ける。
「私ね、中学のときいじめられていたの。そのときに手を差し伸べてくれたのが六原――今は名壁か――だったの」
 いじめか……いじめは、辛いよな。
 いじめを受けた経験は俺にもある。まだガキの頃に両親の所属していた犯罪組織でのこと。ガキだから、グズだからって理由で、周りの大人から馬鹿にされ、殴る蹴るの暴行を受けたりした。……ああ、これだといじめではなく虐待の類か。
 でも、人間性を徹底的に踏みにじられるのだから、当たらずとも遠からずと言えよう。
「だったら、名壁はお前にとって恩人じゃないか。どうしてあそこまで怯えるんだ?」
「……それは……あいつが最低の人間だったから」
「抽象的過ぎてよく分からないな。何があったんだ?」
「……私は、あいつとあいつの仲間に犯されかけたの」
 幽かに声帯が振るわされただけであろう声だったのに、夜の帳の中では嫌でも響いた。
 周防は、当時を思い出してか震えていた。
「信じてたのに……信じてたのに……信じてたのに……あいつは、あいつの家に仲間たちを呼んで私を無理矢理押さえつけて……」
「落ちつけ周防。もういいから。無理に喋らなくていいから!」
 恐慌状態に陥りかけた周防に、掌を前に突き出して、言葉の制止を促す。が、それがマズかった。
「来ないで!」
 周防のトラウマをさらに想起させてしまったらしく、掌が剃刀で切り付けられた。
「痛ッ!!!」
 鋭い痛み。瞬間的に手をひっこめたから、深い傷にならなかった。それでも痛いものは痛い。
「あ、あああああ……」
 その場にへたりこむ周防。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 周防は泣き出した。
 ああ、こいつは悪いヤツじゃない。
 人を傷つけても、その場で後悔できる人間だ。
 被害者に会って、ボコボコにされたり、泣きつかれたりして、ようやく過ちに気付く俺とは違うのだ。
 こいつは良いヤツだ。きっと悲しいくらいに。
「やっぱりさ、剃刀で切ったら痛いぜ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「それなのに、お前はずっと自分の腕を切り続けてきたんだな」
「……」
「本当に痛かったのは、自分や俺を切ったお前の方だろうよ。辛かったんだな。でもさあ、そんなの悪いのは名壁であって、お前に非はないんだから、もう泣くなよ」
「私を許してくれるの……?」
「掌切ったことか?」
 こくこくと頷く周防。
「そうだな、傷は浅くて済んだしなあ」
 改めて掌を確認。
 手の中央に一本朱色の線が引かれているが、堪えられないほどではない。それに、よく見てみると奇跡が起きていた。
 血を左手の甲で拭うと、周防に掌を見せてやった。
「思わぬ効能が出ている――見てみろ、生命線が延長されている。米寿や白寿も夢じゃないぜ」
 冗談めかして言ってやったが、切り傷が丁度生命線に連結されたのは本当だ。
 今まで、二十歳まで生きられるかすら怪しかった長さが、百まで生きられそうなまでにエクステンション。
「……ばか」
 周防はクスリと笑う。むう、やっぱり可愛いな。写メに収めて保存しておきたいくらいだ。

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