アルカナ・ナラティブ/第12話/01

 朝、自室で起床した俺の頭の中では氷華梨の顔が広がっていた。
 自分の唇と、指でなぞってみた。
 海の家でのバイトから二日たっても、氷華梨の唇の感触は鮮明に覚えている。世界で一番柔らかいものなのだと思う。だから、同時に世界で一番守らなければならないものだと思った。
 ぐるぐるぐるぐると、あの瞬間を思い出し、誇らしいような気恥ずかしいような熱い感情がせり上がってくる。
 一人ベッドの上で身悶えする男子高校生は、傍から見たらさぞけったいだろう。
 でも、それでいいんです。自分で自分を認められないで、他の誰が認められましょう。
 今の俺はリア充をリアライズだ。リアルが繁栄(ライズ/rise)している。
 とはいえ、調子に乗っているとどこかで大ゴケするのが世の理。ならば、リア充ならぬリア允でいこう。
「充」ではなく「允」だ。
「允」とは、「まこと」「調和がとれて誠実なさま」「穏やか」といった意味合いの漢字である。
 謙虚であることは、至高のリスクマネジメント。
 ――瀬田翔馬に過ぎたるものが二つあり。出会った仲間と周防氷華梨。
 このことをしっかと胸に刻みつけておかねばならないな。努力を少しでも怠れば、きっと破滅が待っている。氷華梨は俺ごときには分不相応な宝物なのだから。
 さて、本格的に起床しよう。
 ベッドから起きると、洗面所で身支度を整える。鏡に映る平凡な高校生の顔を凝視する。
 ブラックジャック先生みたいな前髪の髪がうっとおしい。さりとて、アルカナ使いとしての呪印を隠すためには、この髪型を貫くしかない。
 高校入学当初から、ずっとこの髪型だった。なので、見知った人間は慣れたはずだ。
 問題なのは、今日は初対面の相手に挨拶をしなければならないところにある。
「どうした翔馬? 神妙な顔をして?」
 鏡の隅に、俺の育ての親である叔父の姿が現れる。
「おはようございます。実は、今日の昼から大事な約束があって、自分に変なところがないか悩んでいたところです」
「そのむやみに長い前髪を除けば、特に問題はないと思うぞ?」
 叔父は厳粛な面持ちで答える。
「そう……ですか……。叔父さんが言うなら、一安心です」
「ところで『大事な約束』とは一体何だ? 例のカノジョさんとのデートか?」
「えーっと、氷華梨と会うのは間違っていないんですけど、今日はちょっと仕様が違いまして……」
「いまいち要領を得ないな。はっきりと説明しなさい」
「……実は、氷華梨のご両親にお会いするんです」
「ほほう、それで緊張しているというわけか」
「ええ、まあ、そういうことです」
 完全にガチガチな俺に対して、叔父は柔らかい表情を浮かべる。
「お前には妙に達観したところがあるから、そういう普通のことで緊張できるというのは逆に安心した」
「俺としては今後の氷華梨との関係を左右しかねないイベントなわけですが?」
「うむ、そうだな。恋人のご両親に挨拶をするのは身が引き締まるものだ。私の場合もそうだった」
 ……叔父さんの場合は醸し出すオーラが重々しいから、むしろ相手のご両親の方が緊張するような気がする。
「叔母さんのご両親、困ってませんでした?」
 何がとは言わないが聞いてみた。
「大変な不快感を表明されたよ。私の家系はロクでもない連中が多いからな。そんな家柄の人間には娘はやれないと怒鳴られた」
 叔父さんは困ったように笑ってみせた。
「でも、叔父さんは結局叔母さんと結ばれた。どんな手を使ったんです?」
「まるで私が手練手管を使って相手を騙したような言い方だな。だが、真実は単純なものだよ。何度も何度も足を運んで、ご両親にお願いしただけだ」
「本当にそれだけ……?」
「残念ながら、武勇伝として語れるような、あるいは人を驚かせるような奇策は用いていない。ただ繰り返し誠意を伝えただけだ。後は、向こうが首を立てに振るか、私が諦めるかの根比べだ」
「それはそれで、苦しい戦いですね」
「耐えるということも、ときには必要だよ。足を縛られ、逆さまに宙吊りにされたような状態だからこそ、自分の信念が試される」
「けれど、それが骨折り損のくたびれ儲けになるかもしれないとは考えなかったんですか?」
「別に私は何か得をしたいから恵美子さんをパートナーに選んだのではない。ただ、一緒に生きたいと思ったから、彼女を選んだ。自分を捨ててこそ、見えてくるものだってある。お前は何か打算があって周防さんと交際しているのか?」
「まさか! 俺は氷華梨のことが大切で、それだけが理由です」
「ならば、彼女のご両親にもそう伝えればいい。もしも相手方がお前の出自や過去に厳しい顔をしても耐えろ。耐え忍ぶことで開ける道もある」

   ◆

 叔父さんの叱咤激励を噛み締めて、俺は周防家の前までたどりついた。氷華梨に教えてもらった住所と地図、更にはケータイでの地図検索までを駆使したので迷子にならずに済んだ。俯瞰で地理を把握できる能力に【鷹の目】とか名付けてみたい。
 周防家は閑静な住宅街の一角に位置していた。大きすぎず、しかし小さすぎない一軒家。会社勤めの人がローンを組んで購入しそうな佇まいの家だった。
 表札には『周防』とある。ここで間違いない。
 敷地外から眺めてみると、庭では季節の花々がプランターに植えられている。
 いやはや、全くもって平和な光景ですわ、これ。何の変哲もない穏やかな時間はカリブ海に沈む海賊の財宝よりも尊いものです。今日は良いものを見せてもらいました。
 なので、もう帰ってもいいかな?
 ……当然ダメですよね。
 俺には前進以外の道はない。将棋でいえば香車の動きしか許されない。来た道を引き返したいならば、敵陣に入り込み成駒になるしかない。
 おそるおそる、周防家のチャイムに手を伸ばす。
 その人差し指の挙動たるや、友達のポーズを試みるETにも引けを取らない。むしろ、『SETA』という名前の綴りにしっかりと『ET』って入っている。よろしい、ならば俺が二代目ETを襲名しよう。瀬田翔馬、嘘つかない……とは言えないよな、どう見積もっても。
 チャイムのボタンを軽くプッシュ。
 ピンポーン、とありふれた音が鳴った。
 十数秒後、
「はい、どちらさまでしょうか?」
 女性の声がチャイムから聞こえてくる。
 この声が氷華梨のものだったら、どれほどいいだろうか。しかし残念、声は彼女のものではない。
「僕は本日お伺いする約束をしていた氷華梨さんのクラスメイトの瀬田と申します」
 緊張から声は上擦り、一人称が『俺』ならぬ『僕』である。若干のキャラ崩壊を起こしていた。
「娘から話は聞いております。どうぞお入りください」
 女性が言うと、周防家の玄関扉が開け放たれる。
 俺を出迎えてくれたのは、四十代前半くらいの淑やかな印象の女性だった。顔立ちからして氷華梨のお母様と思われる。
「いらっしゃい。どうぞお上がりください」
 丁寧な口調でお母様(仮)は俺を迎え入れてくれるが、表情は硬いまま。購入した食品に異物でも混入されていたかのような面持ち。
 というか、きっと周防家にとって俺は異物に違いない。
 手塩にかけて育てた娘さんが、どこの馬ともしれない前科持ちのカレシなんぞを家に招いたのだ。歓迎ムードになるわけがない。
 俺が通されたのは、周防家のリビングだった。
 リビング中央に置かれたソファには、既に氷華梨と初老の男性が腰掛けていた。男性の方の表情はやっぱり硬い。
 例えて言うなら、年頃の娘に悪い虫がついてしまった父親の顔だ。
 否、例えて言うならと言うか、絶対にそうだ。
 一方で氷華梨はお父様と思わしき男性を横目で気にしている。
 完全なるアウェイ戦の様相。
 俺、大ピンチ。
『ピンチはチャンス』なんて小粋なポジティブさなんて挿入する余地がない。ピンチはピンチであり、それ以上でもそれ以下でもない。
「よく来たな。そこに座りなさい」
 男性は自身と対面する席を指差し、俺に言う。
「失礼します」
 俺は機敏な動作で一礼してから、席に着いた。
 男性は俺を一睨みしてから、深々と息をつく。
「私は氷華梨の父親だ。そして、向こうにいるのが氷華梨の母だ」
 極めて簡潔に自己紹介を済ませる氷華梨父。
 本名すら名乗ってもらえませんか。
 ある程度覚悟はしていたけど、これは結構にキツいな。
 この緊張を緩和するべく、アイスブレークを繰り出すか?
 例えば『氷華梨さんのキューティクルはお母様譲りですね』とか、ユーモアたっぷりに肩をすくめるとか。
 いかんいかん、そんなことを言おうものなら周防家で傷害事件が起きかねん。まさか恋人の父親を刑法犯にするわけにはいかない。
 俺が黙りこくっていると、お父様は俺を睨みつけながら、
「どうして君のような輩が、うちの娘と交際しているのかね?」
 緊張はピークに達する。
 もしかしたら、これまでの重たい雰囲気はドッキリで、本当はアットホームな雰囲気で出迎えてくれるかもとか甘い考えもあった。
 そんなわけはないのだ。
 氷華梨の父親も母親も、その眼差しには輝きがなかった。
 眼窩で渦巻いていたのは憤怒でも侮蔑でもないと俺は直感した。
 恐怖。
 二人は、まるで俺が異形の怪物であるかのような視線を向けてきていた。
「どうしてって、私が翔馬のことが好きで、翔馬も私のことが好きだからだよ?」
 膝の上で両手を固く握り締め、氷華梨は言う。
 追従して、俺も口を開いた。
「そ、そうです。俺たちはお互いをかけがえのない存在だと思っています。だから――」
「だからなんだ!」
 氷華梨の父親の怒号が空間を震わす。
 その上で彼は続ける。
「私とて、一人娘を持つ父親だ。いつの日か、娘に恋人ができることは覚悟はしていた! でも蓋を開けてみたらどういうことだ? 噂では、君はかつて世間を騒がせた少年犯罪の犯人らしいな?」
 嫌悪の眼差しで俺を問い詰めてくる氷華梨の父親。
「ご存知でしたか……」
「当たり前だ! 家内が同じ学校の生徒の母親から話を聞いている」
 生徒の間で広まった情報は、当然に保護者の耳にも入っている。そうなったら、もはや箝口令は敷ようがないわな。
「聞いてください、俺は……!」
「何を語ろうというのかね? 君が起こした事件については調べさせてもらったよ。幼い少年が企てたとは思えないほどに凶悪かつ狡猾な事件だった。君の頭がいいのは認めよう。だが、それだけだ。我々家族は、君を認めようとは思わない」
 氷華梨の父親の判決は、俺に容赦なく突きつけられてくる。
「待ってお父さん! 我々家族ってどういうこと? 少なくとも私は翔馬を認めているよ」
 氷華梨の反応に、父親は不快げに口元を歪ませる。
「氷華梨、聞き分けてくれ。これはお前のためを思って言っているんだ。お前にはこれから先の未来というものがある。こんな輩と交際していては、氷華梨の未来がズタズタに蹂躙されてしまう」
「違う、そうじゃない! 翔馬は酷い人間なんかじゃない! 優しくて、勇敢で、誰よりも私を大切にしてくれる人なの!」
 氷華梨は叫ぶ。
 氷華梨が声を荒げる光景なんて滅多にお目にかかれない。
 それだけ今の状況は異常事態だった。
「間違っているのは氷華梨の方だよ。詐欺師とは善人を装って近づいてくるものだ。お前は今までこの少年に騙されていたんだ。だから、そんな悪縁はここで断ち切らねばならない」
 氷華梨の父親の言葉は、いちいち俺の古傷をえぐってくる。
 娘を思う父親なら、彼の意見はきっとまっとうだ。『そんなものは偏見だ!』などと、どうして俺が反論することができようか。
 ここはただ、堪えよう。
 感情を暴発させるか、それとも耐え忍ぶかが道を決してしまう。
 だけど、結局俺にはそれができなかった。
 それは次のような氷華梨の父親の言葉のせいだった。
「君は一体いくら欲しいんだ? 娘から一体どれぐらいの金額を引き出そうとしていたのかね? 百万か二百万か? 好きな数字を言ってみろ」
 瞬間、頭が沸騰。ぶくぶくと脳から毒液が分泌されるような思いだった。
「ば……ば……」
 視界が右往左往し、世界がぐにゃりと歪曲する。
「ふん、何かね?」
 氷華梨の父親は、あくまで俺への敵対の眼差しを崩さない。
「馬鹿にしやがって……馬鹿にしやがって、馬鹿にしやがって!」
 ついに俺は叫んでいた。
 こうなったら、もう俺にだって自分を止められない。
「俺が金目当てで氷華梨に近づいたっていうのかよ!? そんなわけないだろう! 俺は氷華梨が大切で、大切で、大切で、だから一緒にいるんだ! 俺は単に氷華梨が好きなだけなんだ!」
 悪霊にでも取り憑かれたような感覚。
 視界がぼやけて、頭が熱くて、手足がしびれる。
 心が、一瞬にして煉獄へと変容した。
「口だけではなんとも言えるだろう。だが、我々は断固として君を認めはしない。とにかく、我々が言いたいことはこれが全てだ。さあ、来て早々ではあるが、さっさとお帰り願おうか」
 氷華梨の父親は言うと、虫けらを振り払うような手の動作をする。
 なるほど、俺はそもそも人間とすら見てもらえていないのか。
 俺は席を立ち、彼らに背を向ける。
「翔馬……」
 か細い声で氷華梨が俺を呼び止める。
「氷華梨、やめなさい。あんな奴に構うんじゃない」
 その言葉が耳に入ったときに、俺がどれだけ惨めだったことか。
 俺は何も言わずに玄関まで駆けて、外へ出ていく。靴の履き方はぞんざいなもので、かかとを踏んづけていた。
 どうして、どうして、どうして、どうしてこうなった。
 どうして、どうして、どうして、どうして心が痛むんだ。
 落ち着こう。
 こうなることなんて、何となく予想はついていたじゃないか。
 俺は普通の人には受け入れてもらえるわけがないのだ。
 これが普通で、今まで出会った、例えばクラスメイトだとか担任教諭、あるいはアルカナ使いの先輩たちの方が特殊だったのだ。
 生きていくことって、ツラいな。
 未練がましく、俺は周防家を振り返る。家の佇まいだけは、やっぱり平和で、平凡で、平穏なものだ。
 やっぱり、俺みたいな人間と氷華梨は不釣り合いなのかな。
 陽炎揺らぐ八月の炎天下の路上で、俺は一人ぼっちだった。
 深々と溜息をつく。溜息をつくと幸せが逃げるなんていうけれど知ったことか。
 空っぽになった肺が酸素を無意識に求めたので、大気を吸い込んでみた。
 爽快感なんてありえない。ねっとりとした真夏の熱気が、俺の肺を焼き尽くすのみだった。

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