アルカナ・ナラティブ/第13話/01

 イルカを覗き込むとき、イルカもまた我々を覗き込んでいるのである。
 どこぞの哲学者の言葉を改変しながら、青の世界で俺は佇んでいた。
 目の前の水槽では、幾匹ものイルカが舞うように泳いでいる。ひらりひらりと、水と戯れるかのごとく。
 ここは水族館の二階でイルカ専用の水槽の中を見られる作りになっている。ちなみにフロアマップによると三階では水槽を上から見られるらしい。
「これは……すごいな」
 感嘆の声を漏らす俺。頭が澄んでいく感覚と、胸の底から何かがこみ上げてくる感覚があった。
「うん、とっても綺麗だね」
 俺の傍らに立っていた周防氷華梨が頷く。
 水族館なる施設をテレビで目にすることはあったが、直に来るのは初めてだ。
 ちゃんと小中学校に行っていたら遠足で行く機会があったかもしれないが、俺の場合、基本は不登校だった。
 夏休みも終了に差し掛かった火曜日、俺と氷華梨は県内の水族館にデートへ来ていた。どうして水族館なのかと問われれば難しい質問だ。他にも、動物園やテーマパークという案もあった。その中であえて水族館を選択したのは癒しを求めての行動だったのかもしれない。
 夏休みとはかくも厳しい。
 降り注ぐ日差しが厳しいのは言わずもがな、学校から出される課題が足かせになる。
 俺や氷華梨の場合、八月の頭に手早く終わらせた。けれど、課題を早く終わらせた人間には、まだ終わらせていない人間が群がってくるのが世の理らしい。
 熊沢や犬養を筆頭とした男子生徒のみならず、有馬紅華などの女子生徒の何人かにも課題を見せた。
 ちなみにそこに金銭の授受は発生していない。精々、昼食をおごってもらったぐらいだ。アガペの愛にあふれる俺の行動。マザーテレサに少しばかり近づけたかもしれない。
 また、遅ばせながら定期のアルバイトもはじめてみた。バイト先は近所の喫茶店。チェーン店ではなくご近所にある老夫婦が営むお店だ。店主である旦那さんの方が叔父さんと知り合いということで働かせてもらえることになった。叔父さんの人徳に感謝である。
 一方で氷華梨は部活で忙しく、お盆の期間には県外にある父親の実家に帰省。案外と二人でいられる時間が少なかった。
 ちなみに親に没収されていた氷華梨の携帯電話はひとまず返却されている。なので、俺との連絡は可能であるが、やっぱりご両親は快く思っていないらしい。こっちは夏休み中には消化できない課題なんだろうなあ。
 という具合の懊悩を頭でぐるぐるさせながら、目の前の海洋哺乳類を眺める。
 イルカは良いものです。愛くるしい眼差しに、流線型のフォルム。高速で泳いでいても水槽にぶつかる前に方向転換する賢さ。どこを切り取っても俺の好みだ。
「すっかり翔馬のお気に入りみたいだね」
 横で一緒にイルカを眺めていた氷華梨が、柔らかい笑みを浮かべていた。
「悪い、ちょっとぼーっとしてた。流石にイルカだけ見ててもしょうがないよな」
 このイルカの水槽は水族館の入口からすぐの場所に位置する。というわけで、俺たちは全然まだ水族館見学ができていない。
 イルカだけにこだわらず、いろいろ見なければ。
「私は大丈夫だよ。立ちっぱなしも疲れるし、座って見ようよ」
 イルカ水槽の前は階段状になっており、座ることもできる構造だ。実際、座っているカップルや家族連れも散見できる。
「では、お言葉に甘えて」
 恐縮しながら、俺は腰をかける。
 その状態でイルカを見るわけだが、どれぐらいの時間をイルカ見物に当てるべきかを考えていた。
 このあとの予定などを考慮すると、ここに割り当てられる時間は三十分ぐらいが妥当だろうか。だがしかし……。
「ねえ翔馬、今、これからの予定のことを必死に考えているでしょう?」
 シミュレーション演算を展開する俺に、氷華梨が言ってきた。
「その通りだけど……なんでわかった? どんな異能を使ったんだよ?」
 まさか氷華梨に変な力が芽生えたとか? 元々、氷華梨は『相手の嘘を見破る』という魔法が使える。それがついにネクストステージへと覚醒したとか言わないよな。
「不思議な力を使わなくてもわかるよ。だってそれが翔馬の性格だから。今日の予定を綿密に立てて、多少のトラブルが起きても大丈夫なように別の予定も準備してるでしょう?」
「……ごもっともでございます。返す言葉もありません。だって、カノジョとのせっかくのデートだぜ? 失敗するのが嫌だったというか、お前には全力で楽しんで欲しかったというか」
「大丈夫。翔馬とこうして一緒にいることが、今日の予定のすべてだから。それよりも、私としては翔馬には考えない時間を作って欲しいなあ」
「えっと、それはどういう意味だろう」
「翔馬はいつも誰かのために考えて、行動している。あなたにとってはそれが普通かもしれない。だから、今日は特別な時間を過ごして欲しいの。たまには考えるのをやめてみない?」
「そんなものかね? ……確かにそうかな」
 俺の言動が本当に誰かのためになっているかは評価できない。でも、少なくともそうであったらいいなとは思う。だから俺は思考を止めないし、止められない。
 氷華梨はそんな俺をちゃんと見ていてくれたんだな。
 意図して考え事をしないというのも難しい話だけど。
 どうすれば思考を中断できるであろう。懐疑主義の哲学者も裸足で逃げ出すエポケーを展開してみたいものである。
 というわけで、ここは心理描写も情景描写もしないとか? 小説だったら白紙のページが延々と続くみたいな!
 ……流石にマズイか。
 思えば、誰かと一緒にいるときに俺が一番恐れているのは沈黙だったりする。
 会話が途切れて間がもたないってのは、相手との関係が切れたみたいで好きではない。
 そのはずなんだけど……。
 横で座る氷華梨は、穏やかな沈黙をもって青の世界を見入っていた。
 どんなリフもハーモニーも太刀打ちできない沈黙という旋律を、氷華梨が紡ぎ上げる。
 その昔、ジョン・ケージという音楽家が『4分33秒』なる曲を作った。これは4分33秒の間、奏者が何も音を立てないというキワモノな前衛音楽だ。こともあろうに、この曲を配信しているカラオケまである。
 実は以前、クラスメイトとカラオケに行った際、ネタとしてこの曲を再生したことがある。みんなでじっくり『4分33秒』を鑑賞しようと示し合わせていた。
 そのときのみんなの微妙な空気たるや筆舌に尽くし難かった。二分くらいたったあたりから『どうしてこんな曲を選んでしまったんだ』と俺は後悔した。他の面々も何もしていないのに疲れ果てていた。
 無音もまたストレッサーの一つなのだ。
 けれど、氷華梨と共に味わう沈黙は甘く、夢のような時間だった。
 俺たちは今まさに、ジョン・ケージを超越したといってもよい。
 三十分ばかり、イルカ水槽の前でぼーっとしてから、三階で行われるイルカショーを見たり、他の水槽を見物したりした。
 移動の際は氷華梨と手を繋いでいた。ちなみに恋人繋ぎであったことをここにご報告します。
 我ながら、恋愛偏差値が上がっている。幸せすぎて怖いけれど、幸せから逃げるのは氷華梨に失礼だ。謹んで謳歌しよう。
 水族館を出て、ミュージアムショップでお揃いのイルカのキーホルダーを買う。
 今はまだ八月で、午後五時であっても辺りは明るい。水族館の近くには埠頭があり、そこを二人で歩いたりもした。
 もはやリア充の王道どころか覇道を歩んでいる。幸せすぎて、これが死亡フラグにすら思えてくる。
『この戦いが終わったら、俺、彼女と結婚するんだ』とか言ってみるか? ……俺の場合はまだ満十八歳に届いていないのでそもそも民法的に無理だけど。
 埠頭のベンチに座りながら、買ってきたドリンクを二人で飲んでいた。
「今日は楽しかったな」
「うん、いっぱい思い出ができたね」
 大天使の微笑みが俺の横で咲き乱れる。
「ところで今更な質問かもしれないけど、俺とデートしても良かったのか? ご両親……特にお父さんの方は俺を良く思ってないままだよな」
 八月の上旬に氷華梨のご家族に拒否されてから、俺はきちんと彼らを説得できていない。
 一応、氷華梨の家の前までは行ったりもしたが、何度も門前払いを食らっている。
「お父さんのことは……別に気にしなくてもいいよ」
 氷華梨の表情が翳った。
「どうして? 俺はきちんと話をつけたいんだけど」
「お父さんははじめから翔馬の話を聞くつもりがないよ。だからきっと無駄」
「それでも俺は……!」
 思わず叫んでしまった。氷華梨が身をすくませていたので、俺は言葉を中断。
「翔馬はどんな相手でも誠実さを通そうとするんだね」
「可能な限り、俺は正直でありたい」
「けど、翔馬だって嘘をつくことがあるよね」
「まあな。精進が足りないと思う」
「ねえ翔馬、お願いがあるの」
「なんだよ一体」
「……私に協力してほしいの」
「ほほう、何でも言ってみなさい」
 凡夫ならば『いま何でもって言ったよね?』とか言質をとってくるが、氷華梨に関してそれはないだろう。
「うん、じゃあ、なんでも言うね。私、悪い子になりたいの。親に迷惑をかけて、恋人を困らせて、学校の先生を翻弄するような、そんな悪い子に」
「……抽象的な言い回しだな。具体的に何がしたいんだ?」
 氷華梨の言葉は一見するとジョークに聞こえなくもないが、彼女の目は本気だ。
「私、家出をしてみたい。無断で家に帰らないで、お父さんとお母さんを心配させてやりたいの」

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