アルカナ・ナラティブ/第18話/05

「氷華梨ッ!」
 叫んだ場所は俺の自室だった。
 体中に嫌な汗をかいていた。頭の中がぐるんぐるんして気持ち悪い。
 俺は周囲を見渡してみる。見知った世界がそこにはあった。顔のない人間などどこにもいないのは言わずもがな。
 氷華梨がメッタ刺しにされたのはやはり夢だった。
 当たり前だ。あんなもの現実であってなるもんか。
 夢だとわかったら安心した。窓の外はまだ暗い。
 なのに二度寝したいとは思えない。もしも眠った先にある世界が、先ほどの笹倉先輩の夢の世界――【エルドラド】だったらと考えると寒気がした。
 でも、同時に思う。
 氷華梨はあの悪夢からきちんと帰還できてるよな?
 急に恐ろしくなって俺はケータイを取り出し、彼女にメールした。
 現在、夜明け前の四時。メールには傍迷惑な時間帯だが緊急事態だ。
『今、起きてる?』
 そう聞くのが精一杯だった。小洒落た一句なんて吐けやしない。
 数分後、ケータイが鳴った。
『だいじょうぶ、起きてる。電話してもいい?』
 絵文字も顔文字もないそっけない文章。
 でもとりあえずは一安心。
『もちろん。いつでもOKだ』
 返信。後にケータイの通話用の着信音が鳴る。
「もしもし、おはよう」
『うん、おはよう。ねえ、翔馬。もしかして、さっき変な夢を見なかった?』
 聞いてくる氷華梨。俺はいよいよ覚悟した。
「見たよ。笹倉先輩が作った不気味で顔無し人間の闊歩する世界。そこで氷華梨が先輩にメッタ刺しにされる夢」
 口にするのもおぞましい光景だった。
『そっか……翔馬も同じ夢を見てたなら、あれは本当に魔法だったんだ』
「氷華梨も……同じ夢を?」
『うん。そのせいで……夢から覚めてるはずなのに体中が痛い』
「なっ!?」
『で、でも大丈夫だよ? 体中、どこにも刺し傷なんてないから』
「本当に大丈夫なのか?」
『……う、うん』
 妙な間を含んだ氷華梨の返答。
「ふーん。で、本当は?」
 氷華梨が嘘をつくのが下手な子である意味助かった。
『本当は……すごく痛い。体中が痛い。今こうやって話してても、実は携帯電話を持つのがやっとなんだ』
 震える声で氷華梨は言ってくる。
「氷華梨……それは大丈夫とは言わないよ」
 苛立ちと悲しみがせり上がってくる。
『うん……。痛いよ。翔馬、痛い。助けて。脚が、首が、お腹が、体中がズキズキ痛むの……』
 いつも気丈に振舞っている氷華梨が泣きそうな声で言ってくる。
 彼女に会いたい。否、会わなければいけない。
 現在、朝の四時。
 始発電車は動いていない。
 だったらどうした!
「待ってろ氷華梨。ちょっと時間はかかるけど、今からお前ん家に行くわ」
『え、でも……』
「心配御無用! カレシがカノジョを一緒に登校しようって誘いに行くだけだ。そんなの恋人同士ならありがちなことだろう?」
 俺には二本の脚がついてるんだ。その気になれば移動はどうとでもなる!
 俺は即座に学校制服に着替えると、鞄を持って家を出た。
 駐輪場の自分の自転車の鍵を外して走り出す。
 夜明け前の街は暗く薄ら寒い。
 世界中が俺をせせら笑っているような気がしたが、そんなものは被害妄想だ。
 俺には仲間がいて、頼れる先達たちもいて、何より氷華梨がいる。
 だから世界中が敵だなんてありえない。
 自転車を漕ぐ。力強く、全力で漕ぐ。
 二時間くらい走っただろうか。
 辺りは明るくなり始めていた。
 その頃になってようやく氷華梨の家の前まで到着した。
 さーて、こんな朝早くにカレシが御息女の家に乗り込んできたらご両親は白目を剥くだろうな。
 というわけで、ここは氷華梨にもう一回電話してみよう。
 ぶっちゃけ、ここから先はノープランだ。とりあえず、勢いで来てみただけだ。
「氷華梨、今、お前ん家の前にいるんだけど?」
 というセリフだけ切り取ると都市伝説のメリーさんみたいだな。
『うん、私の部屋の窓から見える』
 そう言うとカーテンの放たれた二階の部屋に氷華梨の姿を発見。
「どうする? 体、動く?」
『何とか。ちょっと待ってて』
 そこで一旦通話終了。
 しばらくして、氷華梨の家の玄関扉が開く。
「本当に来てくれたんだね」
 扉の先には氷華梨がいた。けれど表情は憔悴しきっていた。
「当たり前だ。まあ、二時間もかかったのはご勘弁な」
「私としてはそこまで時間をかけてでも来てくれたことが嬉しい。うっ……」
 そこまで言って氷華梨は顔を歪めた。
「おいっ!」
「あはは、やっぱり体が痛む。ねえ、翔馬。私を部屋まで戻すの手伝ってくれない?」
 気丈に振舞う氷華梨。俺にはそれが痛々しかった。
「あ、ああ。でも、勝手に家にあがっても大丈夫?」
「そうだねえ。とりあえず、いきなり翔馬が来たのをお父さんたちに説明するのは難しいから、靴だけ持って上がってくれる?」
「それだと、表に止めてある自転車も目立たない場所に置く必要あるけど?」
「うん、じゃあ、ちょっと待ってる」
 というわけで、一旦自転車を彼女の家の前の公園の隅に移動させてから再び舞い戻る。
 んで、玄関にしゃがみこんでいた氷華梨をおぶって二階の部屋まで運んでいった。
 氷華梨の自室は女の子の部屋であった。
 いやまあ、氷華梨は女子なんだから女の子の部屋なのは当たり前だが、ここでいう意味はすごく可愛らしい部屋という意味だ。
 実は周防家には何度かお邪魔したことがあったが、彼女の部屋まで来たのは初めてだったりする。
 というか……あれ、今、俺ってカノジョと部屋で二人きりってこと?
 今更ながら気づいて、俺の脳内は混乱していた。
 別にやましいことをするつもりはないけれど、いきなり事実を突きつけられるとソワソワするというか。
 しかも調子の悪い氷華梨はベッドで横たわっているし。
 なるほど、これは俺の理性が試されているわけですか。
「ねえ翔馬、えっとね、お願いが……あります」
「なんだよ、改まって。この俺にできることなら何でもしてやるよ」
 ん、いま何でもって言っちゃったよね?
 もちろん、身命を賭して何でもやりますとも。ただし、大企業の買収とか世界平和とか規模が大きくなると膨大な時間がかかったり、俺の代で完遂できるとは限らんけどな。
「うん、じゃあ翔馬にお願い。私をギュッとして」
 おい!
「ひ、氷華梨さん。それはさ、さ、流石に問題あるのでは?」
「てへへ、だよね。でも、今は翔馬にぎゅっとしててほしい。そうすれば体中の痛みを忘れられる気がするから」
「というか、夏休みに四塩先輩の家に泊まったときも思ったけど、お前は俺に対して無防備すぎだ。俺だって男の子だからね? いくらお前が俺を信用してても限界ってきっとあるからね?」
 口を酸っぱくして言い聞かせる俺。
「うん、それは承知しているよ」
「は……? だったらどうして? というかさ、お前、中学時代に名壁にされたことのトラウマとかどこ行ったの?」
「正直言うと、男の人のことはまだちょっと怖い。でも、翔馬は別だから」
「その論法だと、俺が男として認識されてないみたいなんだけど?」
「そうじゃなくって、うん、翔馬は私にとっての例外なの。だから大丈夫」
 蕩けるような微笑み。
 ダメだ、こいつ完全に俺を篭絡するつもりだ。
 いいでしょう。
「ああもう! どうなっても知らないからな!」
 なぜかキレてから、俺は氷華梨の隣で横になった。
 要するに同じ床についているわけです。
 まあ、ここまでは夏休みに四塩先輩の家で体験済だから緊張は幾ばくか薄れている。
 でもあのときは氷華梨の方から俺にくっついてきた。
 今回は俺の方から彼女に密着する必要がある。
 心臓が爆発しそうだった。鎮まれ、鎮まりたまえ!
 もうダメ、すっかりハートに火がついちゃった。
 俺は氷華梨を抱きしめた。
 彼女の体温が直に伝わってくる。
 髪からはシャンプーのいい匂いがしてきて、脳が溶けそうだった。
「翔馬、あったかい」
 心底嬉しそうに、俺の胸に頭をうずめてくる氷華梨。
 まったくもって、ヘタレ男子には刺激が強すぎますって。
 もうこのまま獣とかして大暴走したい衝動を必死になって抑圧してみせる。
「ああ、やっと安心できた」
 と氷華梨はぽつりと口にした。
「どうした?」
「本当はね、夢から覚めてからずっと不安だったの。この世界もまだ笹倉先輩の作った世界の続きだったらどうしよって」
「それは俺も思った。あの人の【エルドラド】とかいう世界は強烈すぎた」
「あの世界を黄金郷っていう笹倉先輩が怖い。街ゆく人には顔なんてなかったし」
「それな。あんなの常人のセンスじゃないよ。何か心に病を抱えてるとかあるんだろうな。アルカナ使いにありがちだけど」
「……だね。でもでも、夢の中で酷い事されたけど私はちょっとあの人に感謝してるんだ」
「おいおい、あの人のどこら辺に感謝要素があるんだよ」
「だって、夢の中で私を酷く傷つけたから、翔馬がこうして駆けつけて来てくれた。しかもぎゅっとしてくれたり。カノジョ冥利につきるというか……ちょっと私もおかしいかな?」
 氷華梨は頭を上げていたずらっぽい笑顔を俺に向ける。
「十分に狂気症状に陥ってるよ、お前も。でも……」
 そこまで言って、俺はちょっとだけ口にするのがはばかられる台詞を飲み込んだ。
「でも――何?」
 当然に気になるであろう氷華梨は聞いてくる。
「でも……うん、そんな氷華梨も大好きだよ」
 いくら恋人同士であっても、文脈を無視して好意を表明するってのは気恥ずかしい。
「うん、私も!」
 氷華梨の表情はとても明るい。
 それでも何故か、彼女の瞳からは雫が溢れていた。
「まったく、何で泣くかな」
 呆れるしかない俺。
「わからない。嬉しくて、でも、幸せすぎて怖くて、でも幸せから逃げたくなくって、だから、ごめんね。こうするしかなかったんだと思う」
「そっか」
 と言って、俺は再び氷華梨の頭を胸に埋めさせた。
「女の涙は準戦略級の武器ですゆえ、落ち着いたら言ってくださいませ」
 トンチキな台詞でごまかしておく。
 どうして、俺の目頭まで熱くなっているんだろう。
 だけど、二人の糖分を間違えたような時間はそんなに長くは続かなかった。
 部屋をノックする音と、扉の向こうから声。
「氷華梨、そろそろ朝ごはんの時間だけど、まだ寝てるの?」
 聴き覚えのある声は、氷華梨の母親のものだった。

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