アルカナ・ナラティブ/ヒノエ日記/第4話

5月3日(土)
 阿加坂光栄が犯した過ちは三つ。一つ、氷華梨君にストリップショーまがいの行為をさせたこと。二つ、キズナ君に暴力を加えたこと。三つ、私のフルネームを連呼したこと。
 ――私のフルネームを連呼。万死に値する大罪である!
 一つ目と二つ目に関しては翔馬君や理音君が制裁を加えるから私は手を出さない。いや、むしろ一つ目に関しては、女の私から見ても眼福であった。美少女がはらりと服を剥いでいく姿は、とてもとても艶やかなものだ。散りゆく花の美しさがそこにはあった。……などという変態じみた感想を抱いていたが、口外はしていない。言ったらきっと人格を疑われるであろうな。それに私は百合属性など持っておらん。純粋に美しいものに満足しているだけだ。私は至ってノーマルである! ノーマルカップリングこそ最強である。と、日記なのに熱く語ってみる。
 さて、話を阿加坂光栄の処遇についてに戻そう。
 キズナ君への暴力については、理音君から盛大な三倍返しを受けていたが、むしろあれは運がよかった方だ。キズナ君に手をあげておいて、たった三発だけ? ありえん。理音君ならあの後、街灯に吊るし上げてもなんら不思議ではない。
 そこら辺は彼が丸くなったのか、後続する私のために意識を残しておいてくれたのか、残酷な仕打ちをしてもキズナ君が喜ばないと思ったのか。どれにせよ、理音君が抱く、キズナ君への愛は少々過激だな。普段クールで内向的な男だが、そういう者ほど火がつくと手がつけられんのはよくある話だ。
 内向的とはすなわち、価値判断の基準が『自分』にある。自分の価値観を貫こうとすれば、ときとして傍からすれば暴走しているようにも見えよう。
 このようにしてフィジカルな面で阿加坂光栄を挫いてくれたので、その後の私の報復は易い作業だった。理事長に根回しをしたことについて、切々と語り引導を渡すだけ。あのときは上手く事情説明ができたと自負している。自分を褒めてやりたい。
 それにしても、理事長は掴みどころのない方だ。真面目なようでいてユーモラス、堅いようで柔軟。良く言えば緩急の付けどころをよくわかっておられる。悪くいえば正体不明。理事長はアルカナ使いについて知る、数少ない大人の一人だが、やはり特に懇意にしてきたいな。何だかんだ言ってもうちの学校で最も権力をもっているわけだから。
 ときに長いものに巻かれるのもいいだろう。それも一つの処世術。今回はフルネームの件で阿加坂光栄に私怨ができたが、それがなくても私はまず理事長に通告していた。強い力を持ったアルカナ使いへの抑止力にはそれが一番手っ取り早い。
『大人の力を借りるのは卑怯』とか理想論は語らない。私はアルカナ使いであると同時に、魔法研究部の部長である。部を存続させるためなら、多少強引な手段を使ってでも、部員を勧誘するが、そうやって勧誘した部員はどんな手を使ってでも守る義務がある。
 ある意味、阿加坂光栄に足りなかった【皇帝】に足る資質とは、そこら辺にあるのだろう。彼はあくまで王である故の権力を私利私欲のために使おうとした。力の使い方を誤った『王』の末路は常に悲惨なものだ。暴君とののしられ、ときに革命を起こされる。
 崩壊は一瞬。しかし、そこに至るまでには相応の因果が存在する。
 そういう意味で、翔馬君は【皇帝】に必要な要素の一つを持っている。今回の一件で翔馬君が阿加坂光栄に勝てた大きな要素は、次の一点に要約される。
 ――運。
 彼は、ここぞというところで天に愛されている。
 だが、私は運も実力のうちだと評価したい。むしろ、最後に運を手にする為に、日頃どれだけ努力したかが問題となるであろう。
 努力をしても結果がでるとは限らないが、成功確率――すなわち運気は上昇するものなのだ。今回翔馬君のクラスメイトが助けにきてくれたのは翔馬君にとってはイレギュラーであった。クラスメイトを呼ぼうと氷華梨君が機転を利かせたのも実に運が良かった。
 だが、これらの運が偶然の産物かと言えばそうではない。
 氷華梨君が勇気を持ってクラスメイトを招集したのは、翔馬君が日頃から氷華梨君を勇気づけていたから。召集されたクラスメイトがそれに応じたのは『瀬田翔馬だったら助けてやろう』と思ってくれる態度を翔馬君が普段していたから。
 運は普段、ちゃらんぽらんな行動をしていて給われるものにあらず。
 運気を上げる手っ取り早い方法は努力だ。
 もっとも、普段の何気ない所作や気遣いも立派に努力だ。最後の最後で運をつかみ取る為の。人事を尽くして天命を待つ、と書けば身も蓋もなくなってしまうかな?
 別に私は『だったら人間的に立派なことをしましょう』などと道徳の教科書がほざきそうな意見を言いたいのではない。自分が関わったことは、善と悪とに関わらず、自分の運命を構成する要素であると思っているだけだ。
 そう、そういう意味で【皇帝】に足る資質の一つとは、常日頃の何気ない意思決定を、緊急時において『幸運』へと転化させられる能力や性質と言える。
 つまりは周囲の人々に『困っているのがこいつなら、しょうがないから助けてやろう』と思わせること。それ即ち、努力に下支えされた運の力。
 そう言う風に解釈していくと、私自身はどうなのだろうかという疑問が生じてくる。私の日常は『努力』に相当するものなのか。
 それはパンドラの箱が開けられてみるまで分からない。ならば、自分が正しいと思う道を進んでみるまでだ。それが明日の『運』へと続くと信じて。
 こう考えると、世に言われる『人の道』を歩むのも長期的なスパンで侮りがたい効力を生みそうだ。だがこれ以上努力と運について考察するのはやめておこう。これではこの日記が道徳の教科書になってしまうな。
 中学時代、道徳はもっとも嫌いな教科だった。価値観の押しつけは誰だって好かないものだろう?
 万に一つもないことだが、この日記を読んだらアイツはどんな感想を吐き出すだろう。道徳嘲る【司祭】・天野篝火ならば――。

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