いつか勇者が来る前に

「勇者が来る! だから私は断固として戦わなければならない!」
 俺の実の妹である美里《みさと》は、上質な絹のような長い黒髪を掻き毟る。兄の俺が言うのは変な話かもしれないが、美里は普通にしていれば可愛らしい美少女だ。
 けれど、口を半開きにして荒く呼吸し、目を極限まで見開き血走らせている様は何かに取り憑かれていると比喩するのがぴったりだ。
「私は勇者ごときには屈しない。何故なら、私は魔王だ。この矮小なる世界の支配者だ!」
 美里は声を大にして主張するが、ここは異世界ファンタジーの世界ではない。二十一世紀の日本の精神病院の入院病棟だ。
 美里の精神状態は、非常に危うい状態にある。
 統合失調症《とうごうしっちょうしょう》――それが、美里の主治医が彼女に下した診断だった。
 統合失調症は、主に幻覚や妄想を基本症状とする精神病だ。統計学的には思春期から三十代までに発症するとされている。
 美里の症状で、特に顕著なのは誇大妄想と被害妄想だ。
 彼女は自分のことを、世界を支配する魔王だと信じ込んでいる。そして、それに伴い、いつか自分を退治に勇者が現れると思い込んでいる。
 美里の調子がおかしくなりはじめたのは、彼女が高校に上がって二か月ほどしてのこと。急に『私は世界を支配する魔王だ!』とか『勇者が来る!』などと家や学校で喚き始めたのだ。
 美里の乱心を心配した両親により、美里は即座に精神科を受診した。しかし、受診室で盛大に大暴れした結果、医者は入院させないと俺たち家族に危害が及ぶと判断。そのまま美里の意思など関係なしに強制入院と相成った。
 正直俺は妹が入院させられたと聞いて安心した。
 俺は『魔王』となった妹とどう距離をとっていいのかわからなかった。美里が発病するまでは、結構仲良く過ごせていたと思う。CDやゲームやマンガの貸し借りをする程度には交流があった。
 けれど、魔王となった美里は俺にとっては恐怖の対象だった。突然、奇声を上げ、暴れ始められたら、俺は対処のしようがない。美里の魔王ぶりは、俺に軽いトラウマを植え付けた。
 しかし、美里は家族だ。いつまでも逃げているわけにはいかない。
 なので、美里が入院して一か月ほどたった今日、彼女が入院している病棟を訪れたのだ。
 美里と面会するにあたって、彼女の妄想に火が付いた場合、否定も肯定もしないようにと医者からは釘を刺されている。
 統合失調症の患者は、妄想を否定されれば躍起になって反駁《はんばく》し、妄想を強化する。逆に肯定された場合、自分の妄想に確信を持ち、こちらも妄想を強化してしまう。結局、統合失調症の患者の妄想には関わらないのが本人のためなのだ。
 存在しない勇者の足音に怯える魔王に、俺はコンビニで買ってきたプリンアラモードを差し出す。
「甘いもの、お前好きだっただろう。一緒に食おうぜ」
 俺が提案すると美里は、平板化《へいばんか》した表情でこくこくと頷く。
 コンビニのプラスチックスプーンでプリンをすくい、嚥下《えんげ》する。その間だけは美里は世界を支配する魔王ではなく、甘いもの好きの女子高生だった。
 そんな美里を見ていると、俺は祈らずにはいられない。いつか勇者が来る前に、美里の病気が治ってくれることを。
 魔王も勇者も跳ね除けて、彼女が普通の女子高生に戻れる日を俺はただ願う。

【いつか勇者が来る前に】了

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