空気の王に君は成れ/第4話

~空気以下の存在~


 最低だ。
 今まで善人面をしてきた癖に僕を罵倒した大橋先生も、僕をやりたくもないクラス委員長に推薦した久我島も。
 けれど無比なまでに最低なのは、多分僕だ。心を閉ざしていると標榜しているくせに、人からの悪意に簡単に動じてしまう脆い心。
 度し難く醜悪だ。心ににおいがあるとしたら、鼻を覆いたくなるような腐臭がしているに違いない。
 久我島に怒りを撒き散らして、教室から逃げ出した僕は激しい後悔に襲われていた。その後悔はまるで絡みつく亡霊のごとく、次の朝も僕に取り憑いていた。
 昨日の放課後に、久我島に怒鳴ったことは謝るべきかもしれない。そんな思いが僕に宿っていた。確かに久我島は理不尽に僕をクラス委員長にした。だけど、大橋先生の罵倒から僕を庇ってくれたのも事実。
 久我島が僕をクラス委員長にしたことが原因なのだから、久我島が僕を庇ったのはマッチポンプなのかもしれない。
 だけど、庇ってくれた一点に関しては謝辞を伝えるべきだ。
 そうでなければ、本当に僕が最低の人間に思えて、自分で自分に耐えられそうになかった。
 そう、心に決めたつもりだった。
 でも、どのように謝れいいのだろうか?
 教室に入る。昨日よりは緩和されているものの、過半数以上の生徒の視線が僕に殺到。僕は無言の圧力に耐えながら、自分の席に辿り着く。
 久我島は教室にいた。ちらりと僕を一瞥して、どうしていいのかわからないという風に、俯いてしまった。
 暢気に、快活に、僕に挨拶してくれたなら、それをきっかけに昨日の謝罪に話をもっていけた。
 久我島が遠かった。距離にすれば数メートルのところにいるのに、その数メートルが僕には踏み出せない。けれど、踏み出さなければ何も解決できないというジレンマ。
 選択肢は二つに一つ。謝るか、謝らないか。
 きっと僕から久我島に近づこうものなら、僕は一身に皆からの注目を浴びるだろう。悪意あるヒソヒソ話が飛散するのも必至。
 自分の席で、しばし懊悩した末、僕は結論を出した。
 やはり、謝るべきだ。
 僕は立ちあがろうとした。
 その時だった。
「よお多々良。朝から不景気な面してるなあ」
 男子生徒の一団が、僕の眼前に立ちはだかっていた。数にして四人。皆が皆、ニヤニヤと笑っていた。けれどその笑顔に友好的な雰囲気は含有されていない。どこか嘲笑めいていて不快な気分になった。
 僕に声をかけてきたのは猿渡亜紋(さわたりあもん)という生徒で、この四人組の男子のまとめ役みたいな奴だ。俗にいうスクールカーストでも高い地位を占めている。
 僕は何と返答していいのかわからない。小粋でユーモラスな回答ができるほど機知に長けていない。
「おいおい、無視かよ。何お前、クラス委員長になったからって調子乗っちゃってる?」
 猿渡の口元は笑っているが、目は全く笑っていない。むしろ、害虫でも見下すかのように僕を睨みつける。
 明確な悪意の表明に、僕はすっかり委縮してしまっていた。
「僕は、その……」
「あん? 誰が発言を許可したよ?」
 口元からも笑みが消失し、猿渡は僕の顔面を掌で鷲掴みにした。
「いいか多々良、久我島に温情を掛けられたからって、自分のクラスでの地位が向上したとか勘違いしてんじゃねえぞ? 誰一人として、このクラスにはお前をまとめ役と認めてる奴なんていないんだよ。お前は地を這うウジ虫のようにこれから先も、クラスの奴らに対して申し訳なさそうに平伏しながら過ごさなければならない!」
 言われなくても、僕は空気でいたかった。
 どうして僕がこんな目に遭わなきゃいけない?
 久我島だ。
 やっぱり久我島が悪い。
 僕は顔を鷲掴みにされたまま、それでも猿渡の指と指の隙間から外界を覗きこむ。
 クラス中が楽しそうに笑っていた。僕という存在を生贄にして、クラスは一つの有機体と化す。
 いや、一人だけ例外がいた。
 久我島だ。彼女だけは、手に口を当てて、怯えた目で震えていた。
 でも、それが何だって言うんだ。こうなった原因は彼女自身。
 ゴムタイヤを燃やしたみたいな黒く燻ぶる怒りが僕の身を焼きつくす。
 猿渡の手を僕は必死に引き剥がそうとする。しかし、猿渡の握力は相当なもので僕の顔にこびり付いて離れない。
 そんな彼の手が離れるきっかけは一人の声だった。
「おい、そこ! 何をしている!」
 入室してきたのは大橋先生。入室直後は凄まじい剣幕で猿渡を怒鳴りつけたが、猿渡が絡んでいるのが僕だとわかるや否や、
「なんだ、多々良が相手だったか。ならしょうがないな」
 傍から見れば、明らかにイジメであろう行為を担任は止めようとしなかった。それどころか推奨するような言いぶりだ。
 大橋先生は僕の元に寄って来る。
「とりあえず、多々良から手を放せ、猿渡。少しこいつと話がしたい」
 猿渡に指示を出した大橋先生は、底冷えするような瞳。そこからは一切の容赦を感じさせない。
 大橋先生は、机を挟んで僕の眼前に立つ。氷の視線で僕を縫い止めた状態で、彼の話の口火は切られた。
「なあ多々良、お前は自分自身を俗に言う『空気みたいな奴』だと考えているんじゃないか?」
 話の意図が読めない。それゆえに、話をどういう方向に転がすつもりかも予期できない。
 しかし、反応しないわけにもいかず僕は、
「ええまあ、そんなところです」
 答えた。
 ところが大橋先生は、これに淡々と首を横に振る。
「空気か、空気ね。お前は何か勘違いしていやしないか? 俗に存在感の無い奴を空気と呼ぶが、俺はその表現は適切でないと考える。なぜなら、まず空気には確固たる重みがあるからだ。地表における空気の重さは一気圧。これは一平方メートルあたり約十トンの負荷が掛かっていることを意味している。すなわち、空気は目に見えず、触れることはできないが、確かに地球に存在するありとあらゆる存在に影響を与えている。また、空気の五分の一は酸素が含まれる。酸素なくしては生物が生きていけないのはいわずもがな。つまりだ、空気は地球上になくてはならない存在なのだ。そんな空気に自分を比喩するのはおこがましいとは思わないのか?」
 科学的に正しいが、言っている内容はメチャクチャだ。だけどそれを指摘できるような雰囲気ではなかった。
 大橋先生は尚も続ける。
「よって多々良涼は空気以下である! 我々と同じ空気を吸っているだけでも甚だ不愉快だ!」
 恫喝。そして、大橋先生の手が僕の首元に食らいつく。
 苦しい。ギリギリと首を絞められる。
「お前さえいなくなれば! お前さえいなくなれば!」
 目を血走しらて、大橋先生はブツブツとつぶやいている。
 もはや、大橋先生は正気ではなかった。明確な殺意がそこにはあった。
 は大橋先生から逃れようと、必死になって彼の手に爪をかけるが、解ける気配は一行になし。
 どうしていきなり僕に凶行を。
 僕は酸欠寸前の脳をフル回転させて、原因を推理する。
 思い当たる節が一件。
 昨日の大橋先生の久我島への告白だ。大橋先生はあの告白で振られた原因は、久我島が僕に気があるからだと勘違いしていた。
 あれか。あれが原因なのか。また、久我島かよ。
 意識が遠のく中で、僕は視界に入る範囲にいるクラスメイトの様子を眺めていた。
 楽しそうに笑う奴もいるし、引いている奴もいる。
 反応には個人差があるが、だが共通して言えるのは誰も僕を助ける気がなさそうであるという一点。
 苦しい……クルシイ……くるしい……。
 助けて……タスケテ……たすけて……。
 僕の懇願は、しかし声にはならず、虚しく口をパクパクさせることしかできない。
 このまま、僕は終わるのかと思った瞬間だった。
「もうやめて下さい。このままじゃ本当に涼が死んじゃいます!」
 久我島が、僕の首に掛けられた手を外そうと、大橋先生の腕を無理矢理に剥がそうとする。
 久我島の腕力は大したものではないだろう。しかし、久我島に横槍をいれられたという状況が大橋先生の目を覚まさせる。
「涼、だと?」
 大橋先生は狂気的な眼差しを、今度は久我島に向けた。
 久我島は怯えた様子で声も出せない。
「ずいぶんと親しそうに呼ぶじゃないか? お前らは、やっぱりそういう関係なのか?」
 不愉快そうな顔で大橋先生は、久我島に詰め寄る。
 久我島は答えない。
「答えろ」
 空気が張り裂けんばかりの大橋先生の一喝。
 だが、その咆哮が逆に怯えるだけの久我島に火をつけた。彼女の中で何かが吹っ切れたのかもしれない
「それを言う必要が、今ここにありますか?」
 身長差から、久我島が大橋先生を見上げる形ではあったが、両者から漲る気迫は同等。
「黙れ! 多々良涼は空気以下のウジ虫! それに与する者もまた同罪だ!」
 久我島の返答は火に油を注ぐに過ぎなかった。それまで怒りで湯だっていた大橋先生の顔が更に紅潮する。
 大橋先生は右手を振りあげる。
 振りあげられた手は、そのまま久我島を引っぱたくべく頬めがけて振り下ろされる。
 ところがだ、そんな久我島を突き飛ばして、彼女を庇う馬鹿が現れた。そいつは、久我島がが受けるはずだった一撃を代わりに食らうハメになった。
「痛ッ」
 久我島の代わりに犠牲者になったのは僕だった。
「涼!」
 庇われた久我島は驚きと歓喜をない交ぜにした声を上げた。
「べ、別に好きでお前を助けたんじゃない。借りをつくりたくなかっただけだ」
 根本的な原因が久我島にあったとしても、絞殺されかけていたところを助けられたのは事実。
 ならば、彼女の危機に身を呈するのは僕に課せられた義務。それに久我島に借りをつくったままにしておくのは本気で気分が悪い。
「ありがとう」
 久我島はのほほんと笑ってやがった。
 こんな殺伐とした教室だというのに、それは陽光のような笑み。
 迂闊にも綺麗だ、と思っている自分がいた。
 ところがそんなムードをブチ壊さんとする男が一人。
「お前ら、俺を馬鹿にしてるのか、ああん?」
 大橋先生は僕の胸倉を掴んできた。そして、そのまま僕の体は宙を舞う。柔道で言うところの一本背負いを決められた。
 ぎりぎりで受け身を取るのには成功した。自分のことながら脊髄反射にグッジョブと言わざるを得ない。
 しかし、床に伏して無防備になった僕に、大橋先生は容赦がなかった。
 彼はまず僕の腹を、その足で踏みつける。
 激しい衝撃に、僕の口から登校前に飲んだコーヒーが噴出しかけるが、それは寸前のところで回避。
 更に僕の腹を踏みつけようと、足を振りあげる大橋先生。
「やめて下さい!」
 そんな大橋先生の脚を、久我島は掴み、どうにか停止させようとする。
「うるさい! 放せ、久我島!」
 久我島の髪を掴み、どうにか引き剥がそうと試みる大橋先生。
 久我島は、必死だった。
 そんな彼女に僕はなにを出来る?
 体力も腕力もない僕が。
 何もできない。そんなのは嫌だ。
 僕は、久我島にかまう大橋先生の隙をついて、体勢を整えて、手近にあった、あるものに手を伸ばす。
 それはどこの教室にもある、生徒用の椅子だった。
 僕は椅子を両手で掴む。そして、大橋先生の頭上へと振りあげる。椅子は今一つの鈍器と化す。
 鈍い音。
 椅子は大橋先生の頭頂部に命中。
 大橋先生の体が崩れる。床に倒れて、ぴくぴくと痙攣するさまは手足をもがれた虫だった。
 その刹那、教室中に生徒たちの悲鳴が響き渡る。
 そして、それからやってきた他クラスの先生に僕は取り押さえられた。

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