空気の王に君は成れ/第5話

~退学裁判~


 結論から言えば、ひとまず僕は停学処分だけで済んだ。
 大橋先生を椅子で襲った件については警察沙汰になっていない。椅子で殴られ倒れた大橋先生は、しかし、しぶとく生きていた。当たり所が良かったのか、それとも僕が非力だったのか、ともかく僕は殺人者にならずに済んだ。
 今でも椅子が大橋先生に直撃したときの感触は手に残っている。固いような柔らかいものを殴る感覚は、とても奇妙で気持ちが悪い。
 あれで大橋先生が死んでいたら、この気持ち悪さに人を死なせてしまった罪悪感まで追加されていたのだろう。
 本当に、大橋先生が死なないで良かった。
 僕の首を絞めて、あわや殺そうとした人間。けれど、いや、だからこそか、僕はそんな人間を殺したという十字架を背負って生き続けるのなんて御免だ。
 人生は万事つつがなく、というのが僕のモットー。
 でも、それをモットーとするなら、そもそも椅子で殴るなという話か。
 あのときは、久我島を助けようと我を忘れてしまっていた。
 久我島を放って、あんな状況からはそそくさと逃げ出してしまうのが最善手だったというのに。
 我ながら馬鹿なことをした。反省というよりは後悔の念が僕に押し寄せる。
 それとも、苦しむ人間を助ければ、僕は中学のときの罪が消えるとでも無意識に思っているのだろうか。
 だとしたら、それこそ噴飯者だ。
 過去は取り戻せない。
 過去は取り消せない。
 後悔だけが取り残されていく。
 僕はもう、太陽の下を歩いてはいけないのだ。
 太陽は眩しすぎて、虫けらの僕では目を灼いてしまうのがオチだ。
「太陽か」
 自室のベッドで一人横になりながら、ぽつりと一人ごちる。太陽という単語から、何故か久我島の笑顔を思い出してしまった。
 暖かな、春を思わせる微笑み。確かに学校中の男どもが久我島に熱を上げるのも無理はなかろう。
 きっと彼女は、僕とは違う世界の住人なのだ。
 同じ星の上で、同じ空の下で、同じ空気を吸っていても、久我島は僕にとっては異世界の人間だ。
 でも、もし、僕が陽の下を歩く権利のある人間だったら、僕もまた彼女に恋をしていたのだろうか。
 そんなありもしない妄想をしていると、頭いっぱいに久我島の顔が広がっていく。
 末期だ。もしもの話なんて考えるだけ無駄で、僕は久我島を拒絶した。だから、すべての想いは灰になる。
 僕の心に春は永遠に訪れはしない。永遠に、永遠にだ。
「さてと」
 僕は自嘲すると、起き上がり、身支度を始める。
 今日は一週間の停学が解かれる記念すべき日。
 そして、おそらく僕が行きたくもない学校を退学になる予定日。実にくそったれた日だ。

   ◆

 僕には兄がいる。
 僕には凄まじく優秀な兄がいる。
 学業成績は言うに及ばず、運動神経も対人接触能力も、僕とは比較にならないほどに優秀だ。
 小学時代からお受験に成功し、中学は難関とされる私立校。高校は地区でも随一とされる進学校を首席で卒業。大学は東京にある赤門で有名な日本の最高学府。
 絵に描いたような神童振り。神童は二十歳過ぎればただの人というが、うちの兄にそんな俗説は適応範囲外。
 そんな兄の弟たる僕も、中学時代までは両親から過度な期待をかけられたものだ。けれど、僕の仕様は両親の期待に答えられるほどに優れていなかった。成績は中くらい。運動神経も卓抜しておらず、内向的な性格で交友関係は狭い。
 僕は何かと兄と比較された。そして、何度となく両親は僕に失望してきた。
 同時に僕は言い知れない怒りを覚えたものだ。
 兄と比較すれば、そりゃ大抵の人間の存在感はくすんでしまう。なのに凡人である僕と比較するのなんて、そもそも間違っている。巨人を測定するのにグラム計りを用意するようなもの。
 そもそも、測定する尺度が間違っているのだ。
 大橋先生を殴った僕は停学の間中、学校のお偉い先生方に吟味された上で退学が言い渡された。
 これに対して両親は僕を擁護する姿勢を見せなかった。
 僕が椅子で人を殴っておいて、警察沙汰にならなかった。彼らとしてはそれだけで御の字なのだ。家から犯罪者が出るのはマズい。だから、詳しい事情も聞かず学校側の『退学処分にすれば暴行の件は一切不問とする』という取引に乗ったのだ。
 一方学校側からしても、生徒が教師を殺しかねないような暴行事件を何とか隠匿したいのだろう。
 そういった両サイドの思惑があって、僕は学校を追い出される運びと相成った。
 正式な処分の言い渡しは、僕が大橋先生を椅子で殴った一週間後の昼休みに行われた。本当は両親二人が付き添いでくるべきだが、父親は仕事の忙しい人なので不参加。もうこの段階で僕をどうでもいいと考えていることが透けて見える。
 結局、僕に同道したのは母親だけ。
 昼休み、僕と母親が通されたのは学校の会議実。
 会議室といっても長机とパイプ椅子が規則的に並べられただけの殺風景な空間だ。
 僕は一応は自主退学という形なので、退学に関する書類でも渡されるのだろう。
 会議室には、僕と母親を除いては、この学校の校長と当事者の大橋先生が待ち構えていた。
 これで僕が諸葛孔明だったら、二人とバッサバッサと論戦を繰り広げるのだろうが、残念僕はそんなに舌も頭も回らない。
 適当に言いくるめられて、ハイ解散という流れになるのだろう。
「多々良涼、何か申し開きはあるか?」
 厳粛に、腕を組んだ大橋先生が訊いてきた。ちなみに彼の頭には包帯が巻かれており、それなりの怪我だったのが窺える。
「いいえ、何も」
「ふん、いさぎよさだけは褒めてやる。しかし、これだけは忘れるな。お前は本来刑法で裁かれなければならない存在だ。そういう罪をお前は犯した」
 大橋先生はわかったようにいうが、彼は何もわかっていない。
 こちとら、いさぎのよさなんてありはしない。内心未練たらたらで、今後の進路についても暗中模索で憂鬱な気分だ。
 ただ、これだけは言える。ここで何を主張しようと、何も変わらないに決まっている。
 確かに大橋先生は僕の首を絞めて殺そうとしてきた。
 だけど、その件についての言及が学校側からなされない。ならば、考えられる可能性は二つ。
 一つ目が、そもそもその一件について学校側が把握していない可能性。つまりこれはクラスメイトが全員で僕に不利な状況を作ろうとしていることに他ならない。僕は久我島からクラス委員長に指名されていらいクラスで嫌われ者だったから、皆が結託した可能性は考えられる。ただ、その場合でも久我島だけはあの当日の出来事を正直に証言しそうである。にもかかわらず今の状況がある。僕は久我島にまで切られたか、それとも大多数の意見によって久我島一人の意見が握りつぶされたか。
 あるいは、学校側が生徒からの情報を知ってなお大橋先生を庇っている可能性も考えられる。つまり教師側から不祥事を出したくないという日本的なお役所思考。教師が聖職なんて言葉はすでにカビが生え腐敗しているのだ。
「お母様から何かありますか?」
 校長が母に訊くが、母は淡々と首を横に振るのみだった。
「では、少々早いですが、今日の話はここまで。書類は期日中なでに提出をお願いします」
 そういって校長が席を立とうとした。
 そのときだった。
「大変です校長!」
 入室してきたのは、うちの高校の制服を着た男子。特徴を述べよと言われると困るほどに普通の顔立ちだ。
 モブキャラ。空気人間の僕でさえ、そんな単語を連想してしまうほどに特徴が無かった。
「何なのかね君は? 今は話し合い中だ」
 ノックも無しに、その男子が入室してきたのが不快だったのか、校長は眉をしかめる。
「はい、だから大慌てでここまでご連絡に来た次第です。この部屋の校内放送をオンにしてください。そこにいる多々良涼君の件が校内放送で流れているんです!」
「何? どういう意味だ?」
 校長が目を瞬かせていると、闖入者の男子は、「失礼」と一声かけて部屋の校内放送スピーカーをオンにした。

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