空気の王に君は成れ/第16話

~世界の終焉~


 ここ三日、赤沢を警戒して、僕は久我島と登下校を共にした。
 一緒にいることが、逆に赤沢の感情を逆なでする可能性もあった。
 しかし、僕がいないところで久我島に手出しされるのは我慢ならない。僕はひ弱な人間だとしても、彼女の盾ぐらいにはなれると自負している。
 久我島に対する僕の呼び方は、相変わらず『久我島さん』だった。
 今更下の名前で呼ぶのが気恥ずかしかったわけではない。僕は彼女と距離を取りたかった。
 もしも、これ以上久我島と親密になったら、それだけ赤沢に久我島が襲撃される可能性が増す。それは絶対にあってはならない。
 僕の過去に、久我島風花という少女は無関係なのだ。
 だけど僕は、時代錯誤も甚だしい騎士を気取って、悦に浸っていただけなのかもしれない。
 結局のところ僕は、覚悟も決意も中途半端な人間で、久我島への態度を決めかねていただけだ。
 彼女への想いは、割りきれず、どこまでもループし、思考の堂々巡りに僕を陥れる。

   ◆

 水曜日の四時間目は音楽の授業であり、当然生徒一同は音楽室へ移動していた。
 移動教室の際には、教室への施錠が義務付けられており、鍵は職員室にある。施錠と解錠はクラス委員長の仕事であり、僕は音楽の授業が終わると、鍵を職員室に取りに行く。
 鍵を持った僕は教室へ。
 しかし、すでに教室の扉は開いていた。
 どういうことだろうか? もしかして、四時間目の前に施錠したつもりで、実は施錠に失敗していたとか。そんな懸念が過った。
 僕はみんなからのお叱りを受ける覚悟で教室に入る。
 けれど、みんなからのお叱りの言葉なんてありはしなかった。
 あったのは凄惨な光景。
 学園祭で使うはずの物品が、これでもかというぐらいに破壊されていた。
 屋台の骨組みはへし折られ、演舞に使用する巫女服はズタズタに引き裂かれていた。
 僕は卒倒しそうになりながらも、どうにか堪えた。
「これは……一体……」
 誰にでもなく訊いたが、答えは返ってこない。
 何者かの悪戯、あるいは嫌がらせ。
 そのような可能性はあった。しかし、部屋をよく観察した結果、それ以上のものである疑いを抱かざるを得なかった。
 教室の扉についた擦りガラスの窓が、円形にくり抜かれていた。
 それはさながら空き巣の手口。
 きっと、学園祭で使う物品をズタズタにした犯人の仕業に違いない。わざわざ窓ガラスを破り、その上で中から教室を解錠。
 手が込み過ぎている。
 偶然教室が空いていたからという犯行ではない。このクラスの人間が今日の四時間目にいなくなるのを知るものが計画的に犯行に及んだのは明らか。
「おいおい、これはどういうことだよ」
 クラスメイトから狼狽の声が上がる。
「とにかく、誰か先生を呼んでこよう。その上で対策なり犯人探しを――」
 僕がそこまで言った、その刹那、
「きゃあぁぁぁッ」
 背後から女子の悲鳴が上がった。
 何事かと振り返る。
 そこにいたのは悪鬼だった。
「よう多々良、久しぶりだなあ」
 粗野な挨拶を投げてきたのは……
「大橋……先生?」
 大橋成平――元二年七組の担任だった。
「へえ、お前はまだ俺を『先生』って呼ぶんだ。正直意外だよ。てっきり、呼び捨てかと思ってた」
 僕だって彼を『先生』と呼びたいわけじゃない。ただ、代替的な呼び方が思いつかないだけだ。ずっと『先生』だった人間を、いきなり呼び捨てにするのも釈然としない。
 そんなことより問題なのは、大橋先生の手元にある得物だった。
 刃渡り十五センチほどのナイフ。更に彼は生徒の一人の首筋に刃を沿わすように当てていた。
 僕たちが教室の惨状に注意を奪われている隙に、背後から人質を確保したのだ。
 人質になった生徒は、久我島だった。
「ああ、久我島。会いたかった! 会いたかったぜ」
 ナイフを首筋に当てたまま、大橋先生は久我島に頬擦りする。彼の頬には無精ヒゲが伸びており、久我島としてはさぞ気持ち悪いだろう。
「大橋先生? 一体何を? この教室のあり様はアナタのせいなんですか?」
 ちょうど背後を取られる形になっている久我島は首だけ後ろに捻り、背後の人物を確認。
「ああそうさ。俺がやった」
 大橋先生の目には光など宿らず、口元だけ歪ませて淡々と答える。
「大橋先生、何をやっているんですか!?」
 騒ぎを聞きつけた、他クラスの教師が駆けつけてくる。グレーのスーツ姿を着た四十代後半ほどの男性教諭だった。
「ち、邪魔が入りやがったか。どけ、ガキども! そこを通せ!」
 大橋先生は、左腕で久我島を抱きかかえたまま、右手のナイフを七組生徒にちらつかせる。彼は教室の奥へ奥へと進んでいき、ついには窓際まで詰め寄る。
「お、落ち着いて下さい、大橋先生。その生徒を解放して下さい」
 男性教諭は大橋先生を諭すが、大橋先生は半眼で無視する。
 大橋先生は、血走り爛々とした眼で、生徒たちを睥睨。そこには地獄より尚暗い怨恨が込められていた。
 何があれば、人間の瞳をここまで陰惨なものに変化させられるのか、それは僕にはわからない。ただわかることは、僕の目の前にいるのは、もはやかつてカリスマ的な人気を誇っていた大橋成平という人間が存在しないことだけ。
 僕は人混みの最前列にいた。それは図らずも大橋先生と対峙する構図をつくりだしていた。
「よお多々良。久しぶりだな。元気にしてたか?」
 大橋先生は、不気味なほどに弾んだ声で言ってきた。
「大橋先生……久我島さんを解放して下さい」
 僕にはありふれた文句しか湧いてこない。けれど、それは僕の心からの願いだった。
「あ? もちろんノーだよ。こいつは俺のものだ。誰がお前なんかに渡すものかよ!」
 情動を乱高下させながら大橋先生は叫んだ。ナイフは以前久我島に付きつけられたまま。
 どうにか彼をクールダウンさせなければ。
 でも、どうやって?
 例えば、敬語を交えて彼に声をかけても、その恭しい態度を嫌みと取られかねない。
 僕は彼に対する態度を取りかねる。
 沈黙。背後では以前野次馬の声が飛び交っているのに、僕と大橋先生の間にあったのは沈黙だけだった。
 カチリ、カチリと、時計の長針が二回駆動する音を僕は聞いた。
 時間にして二分弱。短い時間の中で、那由多の思考が僕の脳内を駆け巡る。その全てはどうすれば久我島を助けられるかというもの。
「なあ、多々良。今の俺はさぞ惨めな姿だろう?」
 先に口火を切ったのは大橋先生。僕は肯定も否定も出来ない。どちらをとっても、きっと彼は逆上するに違いない。
 沈黙を以って、返答とするしかない。
「反応なし――。まあいいさ。世間話程度に聞いてくれや」
 針のように目を細めながらも、割と冷静な口調の大橋先生。
 そして彼は話を続ける。
「俺はさ、今おっかない連中に追われてるんだ。要するに闇金の取り立てだよ」
 彼の告白に僕は少なからず衝撃を受ける。僕だけでなく、周りの連中も同じ気持ちらしい。皆が皆、どういうことかとひそめき合う。
「大橋先生、それは一体?」
 訊いたのは僕。ちょうどみんなの動揺を代表する形になった。
「どうしてって? 原因はギャンブルだよ。いわゆるギャンブル中毒って奴。どうしても俺は賭け事をやめられなくってね。気づいたら借金が返済しきれない額にまで膨れ上がって、首が回らなくなっていた」
 苦笑しながら大橋先生は話す。
「それと、ここに来たのと、何の関係があったんですか?」
「ここに来た理由? そんなことは決まっている。お前たちへの復讐だ。俺はね、闇金を取り仕切ってる組のお偉いさんから救済措置を貰っていたんだ。うちの女子生徒の中でとびきり上等な奴を組に紹介する――そうすれば、返済しきれなくなった借金を減額するって話さ。要するに、変態どもが本物の女子高生をAV女優にしようとしたってわけ。勿論その前にきっちりと薬漬けとも言ってきた」
「な……」
 衝撃の告白に、僕は空いた口がふさがらなかった。
「んで、組の奴らの好みを調べるために生徒の調査書を見せたのさ。そしたら連中はみんなして久我島を指名してきた。だから俺は、久我島に告白した。そうやって自分の女にして薬漬けにして組に売る。それで俺は救われるはずだったんだよ!」
「なんて……ことを……!」
 僕は両手のこぶしを握っていた。
「おいおい、そんなに怒るなよ。俺だって久我島を売るのは惜しいと思ってたさ。できることなら俺の女にしちまいたいぐらいだった。でも、命あっての物種だ」
「アンタは……最低だ……。アンタは最低の人間だ!」
 久我島が人質に取られている事実など頭から吹き飛び、僕は叫んでいた。
「最低ねえ。まあ、否定はしないさ。そんな最低の人間に天罰が下ってね。久我島には振られるし、挙句学校からは追われる。更には闇金の連中からも逃げ回ってるわけさ。傑作だろう? 笑えよ! ああん?」
 大橋先生はゲラゲラと下品な笑い声をあげた。けれど瞳からは涙がこぼれていた。
 もう彼は、壊れてしまっていた。
 これは立てこもりなんて上等なものではない。壊れた人間の、ただの八つ当たりだ。
「でもよお多々良、お前は俺を最低と糾弾するが、お前自身も大概に最低な人間だよなあ!」
 悪魔のような邪悪さで大橋先生は笑む。
 僕は心臓が鷲掴みにされたような悪寒を抱かずにはいられない。
「何を言っているんですか?」
 内心では怯えながら、僕は毅然と聞きかえす。聖人君子を気取るつもりは毛頭もない。むしろこれは防御だ。もし、僕が今まで隠蔽してきた過去がこんな大勢の前で公表された、僕はもう人前に出られない。
「お前、中学時代に生徒会長をやってたんだってな」
 ゾクリ――。
 全身が粟立つ。心拍数が跳ね上がり、まばたきの回数が増していくのを自覚する。
 だけど、表情に出しては駄目だ。
 まだ大橋先生は、問題の核心に触れていない。僕が中学時代に生徒会長だった事実は、内申書を見ればわかること。つまり担任なら知っていても不思議ではない。
「そうですね。確かに僕は中学のときに至らないながらも生徒会長でした。それが?」
 事実は事実として認める。周りの連中には、僕が生徒会長だったという事実だけでざわめく奴もいた。けれど、同じ中学だった奴からすれば周知の事実でもある。
 そう、それ自体は『空気人間の意外な過去』というだけで処理されるだけの、瑣末な昔話だ。
 問題なのはもっと別にある。
「お前さあ、生徒会長の癖に、周りの人間をまとめ切れなかったんだって?」
 なのに、大橋成平は断罪の刃を振りかざす。
 視界が真っ白になりかけたが、まだ踏ん張る。それもまだ核心ではない。
「さあ、どうでしょう。まとめきれたかどうかの判断は人それぞれなんじゃないですか?」
 曖昧な台詞回しで僕はお茶を濁そうと必死だった。
 なのに、なのにだ――。
「――赤沢蛍」
 目の前の悪魔は、僕にとって禁忌の名前を口にする。
「あ、あかざわ?」
 取り繕うべく言葉を探す。
 赤沢。アカザワ。あかざわ。
 けれど考えれば考えるほどに、僕の中では中学時代の赤沢蛍の悲痛な顔が広がっていく。見つかるのは自分への罪悪感と嫌悪感。
「人間ってのは面白いよなあ。駄目なリーダーのせいで組織が空中分解しちまっても、一人の生贄がいれば一つになれる。お前は赤沢蛍って娘を犠牲にして、生徒会をどうにかまとめ上げた!」
 断罪の刃は、今まさに振り下ろされた。
 罪人は、ただ、その場に崩れ膝をつくのみ。
 刃は尚も冷酷に罪人を切っていく。
「大人しそうな顔に似合わず、お前はとんでもない悪人だ。生徒会をまとめる為だけに、率先してイジメの主犯格になるなんてなあ」
 どうして大橋先生が、そこまで詳しい事情に通じているのかはわからない。
 けれど、彼の言葉はすべて事実。
「そ、それは……!」
 僕はそこまで叫ぶが、逆転の手などありはしない。
 全ては事実で真実。そんなものひっくりかえせるわけがない。
「お前は一人の仲間を破滅に追いやった。なのにお前はこうしてのうのうと生きている。あまつさえ、クラス委員長だあ? 笑わせるな。お前は、リーダーとしての務めが上手くいかなかったら、また誰かを生贄にして集団をまとめようとしてたんだろう?」
「ち、違う! 僕はそんなこと……!」
「いいや、違わないね。人は同じ失敗を何度でも繰り返すんだ。何度も、何度も、何度も、何度も! お前は最低最悪の人間だ!」
 彼の呪詛は教室中に響き渡り、ドス黒い渦を巻く。
「僕は……僕は……」
 膝をついたまま、僕は滂沱した。
 罪。咎。罰。
 裁きの雷に当てられて、僕の思考は停止した。
 終わりだ。もう駄目だ。みんなに知られてしまった。せっかく今まで隠し通してきたのに。
 周囲を見渡す。そこにあったのは複雑そうな皆の眼差し。
 侮蔑。嫌悪。憤怒。
 あったのは、害虫を見るようなみんなの視線。
 僕はそこに世界の終焉を見た。
「ハハハハハ……」
 僕は僕が壊れていくのを自覚した。
 両足は、黒い泥沼にすくわれて、後は沈没し、きっと浮かび上がってはこられないだろう。
 なのに。なのにだ。
 たった一条だけ、光が差し込んだ。
 その光の名前は久我島風花。
「もうやめて下さい!」
 久我島の悲痛な絶叫。その声は教室どころが廊下にまで響き渡ったことだろう。
「なんだ久我島? お前の信じてた多々良は最低な人間だったんぞ? なのに庇おうっていうのか?」
 久我島の首元にある刃をチラつかせながら、彼女に誇示するかのように大橋はチラつかせる。しかし久我島は毅然としたまま。
「大橋先生、もうこれ以上人を貶める真似をするのは止めて下さい。アナタ自身が虚しくなるだけです」
「なんだと?」
 凶暴な無表情が大橋先生の顔には張り付けていた。
「涼が中学時代に何をしたのか、それは今は関係のないことです。今の涼は立派にクラス委員長を務めています。それを邪魔しようというなら、アナタはこのクラスの敵です」
 断言。その声音には迷いなど一切ない。
 けれど、そんなものは大橋先生の癪に障るだけだ。
「へえ、そこまで多々良を信じているのか……。許せんな。許せんよ。許してはなるものかよ!」
 激昂する大橋先生は、久我島の首に当てたナイフに力を入れる。
 皮膚に食い込んだ刃は、微かに久我島を切りつけ、久我島の首から微量ながら血液が流れ出す。
「やめて……下さい……」
 久我島の懇願は虚しく宙に霧散する。
 多分だが、久我島の言葉は大橋先生の耳には届いていなかった。大橋先生は顔を真っ赤にして、何かをブツブツと呟いている。
「……やる……してやる……殺してやる!」
 髪を振り乱した悪鬼は、暗黒色の感情を吐きだした。
「ああもう、だったら、久我島、お前は死ね! どうせ俺はもう破滅なんだ。だったらさあ、一緒に死のう。なあ久我島。俺と死のう、死のう、死ね!」
 錯乱した大橋先生は久我島を連れたまま後退。
 そこにあったのは窓。蒸し暑くなるこの季節、窓は開け放たれたままだった。ちなみにこの教室は校舎四階に位置している。
 まさか……!
「やめろッッッ!」
 大橋先生の目論見に気づいた僕は、叫ぶと同時に駆けだしていた。
 久我島は僕の方に手を差し伸べる。
 しかし、僕と久我島の手は一瞬だけかすっただけ。僕は久我島の手を取ることができなかった。
 それが終焉の始まり。
 大橋に道連れにされた久我島が窓から地面へと吸い込まれていく。
 加速度的に大橋先生と久我島の姿が遠近法により縮小化。
 そして、数秒の後、地球の重力は残忍なまでの音を奏でる。
 すなわち、グチャリ、と。
 背後では野次馬の悲鳴が上がっているが、僕にはそれが遠い世界の音声に聞こえた。
 現実から乖離したような感覚。
 立っている床がぐらつくような錯覚。
 再び僕は、床に膝をついた。今度こそ、完膚なきまでの絶望から。
「く……が……し……ま……」
 僕の世界はまっしろに塗りつぶされる。

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