巫女が恋した月下の紅蓮/第2話

ジャン・ヴァルジャンに憧れて


 僕は懊悩する。右腕に施された数珠を外すべきか否かを。
 迷っている間も、体育倉庫は振動する。おそらく雅量がいなした木の化物の枝が体育倉庫に激突しているのだ。
 それほどの運動エネルギーを秘めた攻撃を、雅量は一人で処理している。
 先ほどの木の化物との戦いぶりを見れば、雅量が一般人でないのは明らか。けれど、木の化物が二体になってから彼女が大苦戦しているのも事実。
 雅量を助けたいなら、僕に時間はない。早く覚悟を決めて、体育倉庫から出ていかねば雅量はお終いだ。
 クラスメイトといえども僕は雅量と話したこともない。単に同じ学級に所属しているだけという間柄。だからといって、わが身の可愛さを優先し、彼女を見殺しにしてもいいのだろうか。
 このまま、雅量を見殺しにすれば、僕の安全は保障される。仮に木の化物に体育倉庫を襲撃されても僕はきっと、それに対処できる。
 雅量に僕の『力』を目撃されなければいいのだ。死人に口無し。死者は目撃者にはなりえない。
 だけど、本当に保身のためだけに一つの命を犠牲にしていいのだろうか。
 自分の安全と他人の命。この両極の間で僕は葛藤する。
 どちらを取っても後悔する結果になる。ならば、得られる結論はたった一つ。
 僕は雅量から目を背けるために、体育倉庫の窓に背を向け、固く目を閉ざす。
 すまない、雅量。木の化物には君一人で戦ってくれ。僕は君の勝利を祈る。
 僕には『自分の正体』を明かすリスクを冒してまで、雅量を助けるメリットがない。彼女は僕の恋人ではない。それどころか友達ですらない。クラスが同じなだけのただの他人だ。
 自分の弱さに、涙が込み上げてくる。
 溢れだす涙に、僕は目を閉ざし続けることができず、瞳を開ける。
 そして、ぼやけた視界に入ってきたのは一冊の本だった。
 ――レ・ミゼラブル。
 雅量を見捨てたはずの僕だったが、しかし激しい焦躁に襲われる。
『レ・ミゼラブル』はジャン・ヴァルジャンという一人の男の生涯を描いたフランス文学だ。
 ヴァルジャンは生活のために一切れのパンを盗み投獄される。十数年後に釈放される頃には、ヴァルジャンの心は荒み果てていた。また、囚人であったヴァルジャンに向けられる人々の視線は冷ややかなもので彼は宿をとることすらできなかった。そんな人生のどん底でヴァルジャンが出会ったのが一人の司教。司教はヴァルジャンに寝る場所と食事を与える。しかし、ヴァルジャンは司教の善意を裏切る行為をして逃亡するが警察に捕まり、司教の前に突き出される。裏切られた司教であったが、しかし司教は彼の罪を許し、警察にヴァルジャンの無罪を主張した。それにより魂を救われたヴァルジャンは心を改めて、以後どんな苦境に遭っても守るべき他者のために身を粉にする人生を送った。
 僕は、小さく利己的な人間だ。だから、利他的に勇気と知恵と優しさを振り絞れるヴァルジャンに憧れた。
 けれど、もし、ここで雅量を見捨てたら?
 僕はもう一度、自分に問いなおす。
 ここで逃げたら、僕はジャン・ヴァルジャンになることはできない。
 そこまで考えれば、後はヤケだった。
 僕は禁忌を破るべく、右腕に巻かれた数珠を一瞬にして解く。
 その刹那、自分の中に膨大な力が漲っていく。
 血液が沸騰しそうなまでに熱い。身体から体重が消失してしまったかのように身軽になっていく感覚。視力も回復しており、もはや眼鏡はいらなかった。
 眼鏡を外しながら、僕は体育倉庫に掛けられていた姿見で自分の姿を確認した。
 そこにあったのは異形の姿。
 炎上する焔のごとき紅蓮の髪の男が屹立していた。瞳は満月のごとき金色。それだけでも異貌の存在だというのに、頭からは男を更に異端たらしめる証が生えていた。
 角である。牛のような緩く湾曲した角が、額から二本生えていた。
 そこにいたのは魑魅魍魎の類の姿。
 そう、僕は人間ではない。
 種橋京真の正体は、人々が太古から鬼と呼び忌避する怪物だ。
 姿見で自分が、やはり異形であることを確認すると、僕は次に体育倉庫の扉に手を掛ける。
 扉は南京錠で拘束されていたが、そんなことは些事だった。いくら金属製の錠が掛けられていようが扉自体を破壊してしまえば関係ない
 鬼の姿になった僕の剛力は、金属製の扉を薄いベニア板のごとく吹き飛ばした。
 体育倉庫から解放された僕は、雅量と木の化物間に割って入った。
 突然の闖入者に、木の化物たちの動きが停止。
 おそらく、木の化物達は気圧されているのだ。なまじ僕と同じ妖の類である以上、彼らは僕から放たれる圧倒的にな妖力を感じずにはいられない。
 しかし、沈黙は一瞬だけ。
 すぐに木の化物たちは、
「退ケ……」
「ソコノ人間ハ我ラノ獲物ゾ……」
 陰鬱な声で警告してくる。しかし、僕の返事は待たなかった。
「邪魔ダ……」
「消エサレ……」
 左右両側から、枝の鞭が僕に襲いかかる。
 しかし、鬼となった僕にはそんな攻撃は児戯に等しかった。
 僕に襲いかかってきた二本の枝を、僕は左右の手でそれぞれ受けとめる。
 木の化物の枝を掴んだ状態で僕は唱える。
「燃えよ!」
 次の瞬間、僕が掴んだ場所を基点に、木の枝が燃え上がる。
 紅蓮の炎は、それぞれの枝を伝い、本体であろう木の化物の幹まで達する。
「ヤメロ、ヤメロ」
「助テクレ」
 木の化物たちは身体を地面に倒し、転がり始める。必死の消火活動だったがそれは無意味だ。
 枯れ果てた木の化物たちの身体ほど、燃えやすいものも他にない。
 彼らにとって、炎を操る僕は天敵だった。そんな天敵に何の用心もなく挑みかかったのだから、彼らの敗北は必然だ。
「消エタクナイ……」
「死ニタクナイ……」
 二体の妖怪の懇願は、しかし誰にも聞き入れられずに、虚空へと霧散する。
 慈悲深い銀色の月光の下、無慈悲な紅蓮の炎は贄を捕えて離さない。
 ものの約三十秒で木の化物は完全に沈黙。一分も経たない間に木の化物だったものは、ただの消し炭と化し、やがて夜風に曝され黒い粒子となって風化していった。
 これにて、僕の仕事は終了。
 けれど、問題はここから。
 雅量は鬼の姿を目撃してしまった。
 雅量は察するに退魔士と呼ばれる務めを負う人間なのだろう。退魔士とは読んで字のごとく、先ほどの木の化物のような妖怪を退治することを生業とする人間だ。
 そして、悲しいかな僕は鬼という立派な妖怪だ。
 そこから導き出される結論はただ一つ。
 雅量は僕を敵と認識し、滅しようとするだろう。
 だから、僕が取るべき次の行動は、ただ一つしかない。
 それは、この場から早々に撤退すること。
 雅量と戦いになっても、鬼の姿の僕ならば十中八九勝てるだろう。
 しかし、僕は妖怪といえど、人の世で生きる者。いくら相手が退魔士だろうと人間とは戦いたくない。
 僕は足許に力を込めて、そそくさとこの場からの撤退を試みた。
 だが、その瞬間、背後でドサリと何かが地面に倒れる音がした。
 思わず、僕は背後を振り返ってしまった。
 そこにあったのは、瞳を閉じて地面に倒れ込む雅量の姿。
 死という単語が僕の頭をよぎり、大慌てで雅量に駆けよる。
 しかし、雅量は死んでなどいなかった。ただ、彼女は眠りこけているだけ。安らかな寝息を立てて、穏やかな寝顔だった。
 おそらく緊張の糸が一気に切れたのだろう。
 一度は窮地に陥った戦闘が、闖入者の介入により一瞬にして決してしまっては、誰だって拍子抜けする。
 それに加えて、彼女の疲労は相当なものだっただろう。一人で二体の木の化物の攻撃を裁くのは人間にとって並大抵の芸当ではない。また、水の刃を発生させるのだって相当な精神力を要したはずだ。加えて、木の化物から受けたダメージも軽いものではなかっただろう。
 さて、僕は雅量をどうするべきか。
 このままここに放置する手もあるが、真夜中の屋外に女の子を放置するのは男として気が引ける。
 僕は溜息を一つ吐いた。
 雅量の家を僕は知らない。なのでひとまず僕の家に連れ帰って介抱しよう。
 これほどまでに嬉しくない、女の子のお持ち帰りがどこにあるだろうか。
 まったく、ジャン・ヴァルジャンになるのも楽じゃない。

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