ムシクイ/第1話

~名も無き少年~


 目を開いたときに、まず視界に入ってきたのは潔白の天井。目覚めたとはいえ意識が半分混濁していたので、どうにも天井までの距離感がつかめない。
 他の五感に注意を向けると、嗅覚が空間に満ちる微かなアルコールの香りを感知する。酒類が放つアルコール臭でないのはすぐにわかった。俺の鼻腔をくすぐるアルコールの香りは、どこまでもアルコールの匂いしか含有されていない。故に消毒用のエタノールの香りだと判断できる。
 ここはどこかの病院だと推察するのが妥当だろう。
 となると、次の問題はいかなる理由で病院に搬送されたかだ。
 俺は上体をベッドから起こし、体に異常がないか確かめる。
 異常はすぐに見つかった。
 左手首に厳重に包帯が巻かれていた。ギプスで固定されているわけではないため、骨折の類ではないようだ。
 俺は手首を動かそうと試みる。すると、包帯のまかれた部位からズキリと疼痛が走る。
 なるほど、今回の怪我は手首の裂傷が原因というところだろう。もっと俗っぽく言えばリストカットという奴だ。
 しかも、病院に担ぎ込まれるくらいなのだから、相当に傷は深いようだ。
 ……腱とか切れてないよな?
 俺の脳裏に笑えない可能性が浮上して、ちょっと眩暈がした。
 この先、左手が使用不能になったら生活に支障を来すのは必至。幸いにして俺は右利きではあるが、それでも両手が機能する方が良いのは言わずもがな。
 リストカット(暫定)だとすると、傷痕とかが残ってしまうんだろうな。
 機能的な問題を考慮すると同時に、見てくれの問題も視野に入れておく。
 人はまず、見た目で人を判断するもの。にもかかわらず、手首に深々と傷痕があったら、メンタルの世界に耐性がない人はドン引きする。
 傷痕は男の勲章だという言葉は、この場合適用されない。なにせ、敵に斬りつけられたわけではないのだから。
 ただでさえ、学校で白い目で見られているのに、これで更に人が離れていく。世間の目は、涙の味と同じくらいにしょっぱいぜ。
 すっきりしない目覚めだから、このまま二度寝しようか。それともナースコールで看護師を呼び出すべきか。
 考えあぐねていると、病室の扉が開く。
 扉を開けたのは、一人の少女。俺の知った顔だった。俺の通う高校の女子制服であるブレザーを着用している。
 扉を開けた時は、不安げな表情だったのに、俺と目が合うと途端に目を丸くする。
「よう、香奈。元気してた?」
 俺は来訪者の少女、二条香奈(にじょうかな)に気さくに挨拶。
 俺としては最大限の友好を示したつもりだった。にもかかわらず、香奈は眉間にシワを寄せる。はて、どこで地雷を踏んだやら。
「それは大怪我して病院に運ばれた人間の台詞じゃないでしょう!」
 香奈の怒号が病室に轟く。病院ではお静かにというマナーを彼女は知らんらしい。まったく、これだから最近の若いモンは。とかいう俺も香奈と同じく高校二年生なんですけどね。
「そんなに目くじら立てんなって。とりあえずそこに座れよ」
 俺はベッド脇に置かれた、丸椅子を右手で指差す。
 女子制服の胸元のリボンタイを揺らしながら、香奈は大股で椅子まで歩み寄る。「言われなくても立ち話なんてするつもりはないわ。はい、これお見舞いの品!」
 そう言うと香奈は持っていたフルーツバスケットをベッド脇のサイドテーブルに乱暴に置いた。
 俺はフルーツバスケットの中身を一瞥する。
「あれ、メロンとかマンゴーって入ってないの?」
 別に何が入っていようと食べ物ならば問題はないが、冗談半分で言ってみた。
「リンゴを皮ごとどころか、種ごと食べるような雑な人間に、そんなセレブな品を与えるわけがないじゃない。アンタの汚い食べ方にかかれば、どんな高級食材もジャンクフードに早変わりよ」
「それって、全国のジャンクフード店で働いている方にすごく失礼な言い方だよね」
 俺は、一応つっこんで置くが、自分の食事が粗雑であることは否定しない。というか、真実なのでできない。
 食べることはいわば戦争だ。戦争にマナーを持ち込もうという人間の感覚がイマイチ理解できない。
 そもそも、食べ物なんて生命活動を維持するに足るものであれば問題ない。そこに美食だのグルメだのといって差異を求める贅沢さは、サバイバビリティの欠如としか思えん。
「んで、今回はどんな動機で以って自殺未遂を起こしたの?」
 香奈は特に『今回は』という言葉にアクセントを置いて訊いてくる。
 俺と香奈は中学一年からの悪友だ。腐れ縁と言ってもいい。
 中学時代から俺は、自殺未遂者として病院に担ぎ込まれるということを繰り返してきた。その都度、強運を発揮し俺はしぶとく生き延びてきた。
 マンションから転落したら運良く階下に止まっていたトラックがクッションになって助かったりもした。
 睡眠薬を大量服薬なんてこともあったが、早期に発見され即座に病院で治療を受けたりもした。
 死のうとしても死ねない運命というのは、ある意味でファンタジーだ。
「今回ワタクシが死を選んだ理由は……えっと、進まぬ政官民の一体化改革と、深刻化する若者の雇用や、あるいは今後の日本のエネルギー問題などに漠然とした不安を抱いたからであります」
 我ながら実に社会派だ。まあ、知っている単語を切って張っただけだから中身なんてないけれど。
 そんな俺を香奈は責めたてはしない。
「つまり今回も、理由は言いたくないわけね」
 理解ある悪友で助かる。
 仮にここで香奈が怒って詰問してきても、俺には答えようがないんだけれど。
 今回、俺の腕を切ったのはそもそも『俺』の仕業ではない。
 俺はどちらかというと、今回の自殺騒動の被害者側に立っている。
 何しろ、今回も、前回も、前々回も、そのずっと前の自殺未遂も、実行犯は『もう一人の俺』なのだから。
 まるで中学二年生の言い分みたいだが、事実なので目をつむっていただきたい。
 俺は一応、戸籍上は中原陽向(なかはらひなた)という名前がある。けれど、『俺』は正確には陽向ではない。
 陽向は別にいる。
 ――解離性同一性障害。
 それが中原陽向という人間が心に患った病みの名前。
 あるいは、そんな小難しい病名など使わずに『多重人格』と言った方が通りはいいのかな?
 吾輩は中原陽向の交代人格である。名前はまだない。
 ……というか、元より交代人格として別の名を名乗るつもりはない。
 ちなみにここでいう交代人格とは、解離性同一性障害に関する用語だ。よく混同されるが『交代人格』と『副人格』は違う意味を持った言葉である。
 交代人格は要するにすべてのオリジナルではない人格を指す。
 一方で副人格とは、実際に外に出ている時間が相対的に少ない人格を指す。逆に一番外に出ている時間が多い人格は主人格などと呼ばれる。
 つまり俺の場合、交代人格でありながら主人格であると便宜上は分類される。
 もっとも、そんな分類が一体何の役に立つのかは謎だ。交代人格だの副人格だのとラベルを張ってみたところで、病気が改善するわけではない。むしろ、人格の状態を勝手に固定して、動的な変化を妨げてしまうだけだ。
 それでも、分類しなければ医者はカルテを書けないわけで、なんとも面倒臭い話だ。
 カルテ上できちんと患者の状態を表現するという意味においては、俺にも名前があった方が便利かもしれない。しかしながら、俺と陽向の主治医は『解離性同一性障害など存在しない』とうい立場を取る人間だ。主治医様の話では解離性同一性障害は、しょせん患者の作り出した妄想で、患者に現実を直視させることが解決策だとほざきやがる。
 現実を直視するためには、交代人格に名前など不要。そんなものは無暗に逃げ道を作るだけにすぎない、と主治医は主張する。
 そこまで交代人格を否定されると腹が立つ。いっそ、自分で好きな名前でもつけてやろうかとも考えた。しかし、自分で自分の名前を付けるというのが、俺にはどうにもしっくりこない。
 例えばペンネームやハンドルネーム、あるいは芸名なら別に自分でつけても一向に構わないと俺は思う。しかし、自分の本名となると話は別だ。本当の名前とは人から与えられるもの。
 随分と面倒臭いポリシーだが、こればかりは譲れない。
 ところが、俺が解離性同一性障害の交代人格であると知る人間は、精々主治医と保護者くらいなもの。その全員が多重人格会議論者。同年代の人間で俺の正体を知る者は皆無。一番俺に近しい香奈であっても真相を知りはしない。
 どうして香奈にも言っていないかと言えば、解離性同一性障害であるとカムアウトするには、相応のリスクが伴うからだ。
 世間では心の病に対して、未だなお偏見の目が一定数存在する。そんな世知辛い世の中にあって自分が解離性同一性障害であると情報が漏れるのは実によろしくない。
 香奈がわざと人を貶めるような真似をするとは思わない。しかし、ついうっかり口を滑らせるという可能性は全否定できない。情報管理の観点から、俺の正体は秘匿すべきなのだ。
 更に言えば、香奈に真実を告げたところで何のメリットがあるというのだろう。香奈に喋れば病気が治るというわけでもあるまい。逆に秘密を知った香奈に不要な重荷を背負わせたり、変に気を使わせるのが関の山。
 必要ないことはするべきではない。
 それが俺の処世術。
 結局、俺はどこまでも偽物で、偽物の想いを抱き、偽物の命を生きるしかない。
 それが悲しいことだとは思わない。
 元より俺は一人で生まれたのだ。一人で生きて、一人で死んでいくのは当たり前の定め。
 とかハードボイルドを気取ってみたが、高校生のガキが気取っても格好がつかないか。ギムレットには早すぎる年齢だしな。
 俺はフルーツバスケットの中からリンゴを一つとると丸かじりする。
 当方、メンタルとは違って歯茎は健康なので、リンゴをかじって歯茎から血が出るなんてことはない。
 ガツガツと俺はリンゴを咀嚼する。果たしてこのリンゴが高いのか安物なのかは、味覚音痴の俺にはわからない。
「一応聞いておくけど、……美味しい?」
 香奈は訊いてくるが、俺は答えに窮する。
「えっと……香奈の思いやりの味がいたします」
 気を使っているようでいて、しかし度の合わないメガネ並みにピントぼけした返答。
 細かい味の違いがわからないことには不自由しない。しかし、味の差異が弁別できないことが、香奈の感情の機微まで察知できないように思えて、若干の負い目を抱いてしまう。
「よくわかんないなら無理はしなくてもいいのよ? 私たちは、その……れっきとした友達なんだから。ね、陽向」
 香奈が言う『陽向』という名前に、俺はいつでも心臓が縮み上がる思いだ。
 俺は断じて陽向などという人間ではない。中原陽向の心に巣食った侵略者なのだ。
 香奈に、いや香奈だけでなくすべての人に『陽向』の名前を呼ばれるとき俺は違和感と罪悪感が喉元からせり上がる。
 俺は中原陽向ではないんです、ごめんなさい。
 薄汚れた化け物なんです、ごめんなさい。
 生まれてきてごめんなさい。
 ネガティブの極みを嘔吐しそうになりがらも、いつもぎりぎりのところで飲み込みなおす。
 だから、俺には名前などなくても構わない。主張すべき名前など持ってしまっては、自分の正体を隠すのが、より辛く困難になるだけだ。

次→

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