ムシクイ/第2話

~恋愛相談~


 結局、俺が退院したのは目覚めて三日ほどしてからだ。
 病院側としては、精神が不安定な俺をもっと拘束しておきたかったようだ。しかし、保護者である叔父夫婦は学業を優先させるために、俺を早々に退院させた。実の両親でもない叔父夫婦からしてみれば、俺は目の上のたんこぶなのだ。入院が長引き、出席日数が足りなくなって、高校を留年したら堪ったものではないとのこと。
 叔父夫婦は早急に俺に家から出て行って欲しいが、しかし世間体もあるから無碍に追い出す真似はしたくない。そのため、高校卒業後に一人立ちという意味合いで俺を追い出す算段なのだ。
 ……という旨は、叔父夫婦から直に聞いた話である。うっかり立ち聞きしてしまったとかではない。食卓で面と向かって言い聞かされた。その際の叔父夫婦の顔には明らかな俺に対する嫌悪。害虫でも睨みつけるがごとき冷たい視線。
 口には出していないが、俺が邪魔な人間であると顔に油性マーカーで書いてあるかのような露骨さだった。
 というわけで、退院した翌日には俺は元気溌剌と登校していた。まあ、元気といっても空元気の方だけど。
 始業前の教室に入ると、皆が皆、一斉に俺に視線を向けてくる。けれど、それだけ。誰も挨拶を交わして来たりしない。
 まるで、室内に羽虫が侵入してきたような、そんな汚らしい虫けらを嫌悪するような目線。けれど、こんなことでいちいち傷ついていたら学校生活は送れない。
 別に鋼の心なんて持ち合させていなくとも、人からの侮蔑の視線には耐えられる。要は慣れの問題だ。
 人の心は痛みになれるように作られている。同じ強さの不快な刺激であっても、複数回繰り返すことによって、感じる刺激の強さは減衰していく。そして、減衰の彼方には虚無が待っている。
 それは心が死んでいるとも言える状態だが、日常生活に支障を来すような心なら、死んでいてもらった方がマシだ。
 そもそも、交代人格が心について考究するのは滑稽な話だ。所詮、俺が『自分の心』と呼んでいるものは、陽向が現実逃避のために拵えたイミテーションにすぎない。
 心みたいで本当は心ではない心に似た何か。
『オズの魔法使い』に出てくるブリキのロボットなら、それでも心が欲しいんだとでも言うだろうか。むしろ、俺は心とは無縁なブリキのロボットの方に憧れる。
 必要なことを、プログラムに沿って、何の葛藤もなく処理できる一つの無機的なシステムになれたら、それはどれだけ幸せなことだろうか。
 俺は机につっぷしながら、そんな益体のない思索に耽っていると、始業のベルが鳴り響く。
 それと同時に教室に担任教師が入ってくる。
 担任は四十代前半くらいの男性で痩身で猫背。表情は終始不機嫌そうでいかにも神経質な雰囲気だ。
 学級委員が挨拶のための号令をかける。室内の生徒が立ち上がり、気のない声で『おはようございます』と一礼をして着席する。
 着席した俺は、再び自分の席につっぷす。
 あとは、担任が生徒の出欠を取って、二つか三つほど事務連絡をして朝のショートホームルームは終了というのが毎度のパターンだ。
 担任の言葉に耳は傾けていたが、この人から面白トークが聞けるわけではない。担任はいつも事務的な連絡を、事務的に話すだけだ。
 ところが、今日に限っては、仕様が違っていた。
「ほう、今日は中原が来ているのか――」
 担任に呼ばれて、俺は机にだれていた体を起こす。
 俺を呼ぶ担任は、しかし友好的という言葉とは程遠い態度。口をへの字に曲げ、目は針のように細い。
 俺は敢えて担任の言葉には反応せず、向こうの出方を窺う。
 俺が黙っていると、担任は続ける。
「中原、調子はどうかね。私は大怪我をしたと聞いていたが」
 言葉だけ切り取るとさも心配しているようにも聞こえる。しかし、担任は相変わらずの鉄面皮。
「学校に来られるくらいには大丈夫ですよ」
 返答は当たり障りのない言葉をチョイス。波風を立てないようにするのも立派な対人スキルなのだ。
 ところが、俺の言葉に担任は、への字に曲げた口を、より歪な形に変形させる。忌々しげに歯ぎしりする姿がそこにはあった。
「図に乗るなよ、中原。お前の軽率な行動が私にどれだけの被害を与えたと思っている? お前が起こした問題は、お前だけにとどまらず、学校側に混乱をもたらした。私はその事後処理に貴重な時間を割くハメになった。このような理不尽は断じてあってよいものではない!」
 いきなり担任の堪忍袋の緒が切れた。
 何があったかは考えるまでもない。要するに、俺が自殺未遂をしたことが、学校側に伝わり、担任である彼が偉い先生からお叱りを受けたのだろう。
 担任からすれば完全なるとばっちりだ。怒りたくなる気持ちもわからんでもない。
「大体、お前のような生徒がいるから、この学校はよくならないんだ! お前のような奴はいてはならない! お前のような存在は、他の生徒の健全な成長を阻害する害虫だ。お前がいるだけで、他の生徒が虫に食われてしまうようなものなのだ!」
 担任が暴走し始めた。この人、どうやらお偉い先生から相当に手厳しい叱責を受けたみたいだ。その点はお悔やみ申し上げるしかない。
 相手の怒りに怯えてもしかたがないので、俺は平然と構えることにした。
 ところがそれが不味かった。
「俺の話を聞いているのか!」
 担任は怒鳴りながら、彼の背後にあった黒板消しを俺に投擲してきた。完全に油断していた俺は眉間に黒板消しを喰らうハメになる。
 その瞬間、教室がドッと沸いた。クラスメイトの哄笑が室内に響き渡る。まあ、今時黒板消しを投げる教師なんてコントの中にもいないだろう。みんなのツボに嵌ってしまってもしかたあるまい。
 ところが、このクラスで一人だけこの状況を素直に笑えない、担任以上に神経質な人間がいた。
 ――僕を馬鹿にしやがって――
 俺の脳内で、地獄の亡者よりなお陰険な声が鳴り響く。
 ――許さない、赦さない、ゆるさない!――
 声は徐々に大きさを増していき、それは俺にしか聞こえないであろうが、確かな雷轟となる。
 それは俺の宿主である中原陽向の抑えきれない憤怒だった。
 浸食されゆく俺の意識。俺はとりあえず抗ってみせるが、偽物が本物に勝てるわけがない。
 俺の意識は瞬く間に中原陽向に蹂躙され尽くす。

   ◆

 暗黒色の陽向の声が、脳内に轟いてからの記憶がすっぽり抜け落ちている。人生という連続体の一部がムシクイにでも遭遇したかのような不快感。とはいえ、俺自身が御しきれないという意味において陽向の癇癪は自然災害のようなもの。起きてしまったことは仕方がない。
 大事なのは事後処理なのだ。
 とか、さも悟ったようなことを言ってみるが、俺の心は曇天で、雲一つない晴天には程遠い。
 陽向の被害妄想力には改めて感服せざるを得ない。
 クラスメイトが笑うことを、問答無用で自分への侵害だと判断する。陽向にとって外の世界は悪意に満ちており、味方が一人もいないようだ。
 俺と陽向の記憶は分断されている。コミュニケーションはほとんど取れない。たまに今回のように向こうの声が一方的に聞こえることはあるが、これは実はレアケース。本来は、何の通達もなくいきなり人格は切り替わる。
 せめて陽向とコミュニケーションが取れれば楽なのだが。ツイッターでいうところのダイレクトメッセージ機能みたいなものを脳に内蔵したい。もし、両者間でのやり取りができたら、どんなに楽だろうか。日常的なルーチンや非日常的なアクシデントを、二人で臨機応変に対応できるかもしれない。
 例えば、試験なんて二人で相談し放題だ。誰にもばれない最強のカンニング足りうるではないか。
 ……いや、でも二人で話し合っても根っこの部分は同じ人間。相談しても情報量は増えないか。
 解離性同一性障害って、どうにか有効利用できないものかねえ。
 傍からしたらふざけた考えに思えるかもしれないが、俺は大まじめだ。
 そのためには、陽向の異常なまでの癇癪を改善させねばならんな。
 あいつのネガティブ・シンキングを正さねば、俺の人生までグチャグチャになってしまう。
 今回の停学のように。
 そう、今回の停学のようにだ。
 大事なことなので二度言いました。
 現在の俺は、目下停学中だ。
 詳しい理由は知らん。
 理由を思い出そうにも記憶がムシクイで、全く思い出せない。
 担任に理由を聞いてみたが、『お前は自分のしたことが理解できんのか!』と一括された。ちなみに、担任の額には包帯が痛々しく巻かれていた。そんなものを見ると詳細について知りたいというモチベーションは急速に目減りする。
 とはいえ、現実を直視しないと問題解決への方策を組みようがない。『逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ』と某アニメの主人公の感動的な台詞で自分を奮起させてみる。
 当事者(とういか多分被害者)となった担任教諭から直接聞き出せないならば、あのとき教室にいたクラスメイトに訊くのがベター。
 しかし残念、俺は友達が少ない。停学になるほどの重たい話をできる友人なんてクラスにはいやしない。
 となると、保護者から又聞きしてみるか? けれど、ただでさえ俺と保護者は険悪な間柄。彼らに『どうして俺は、停学になったの?』と訊くのは憚られる。十中八九、白い目をされるのがオチだ。
 となると、残る選択肢は――。
 俺はケータイを取り出して、とある人物に電話をする。
 その相手は中学からの悪友である二条香奈である。
 現在は午後五時で学校も終わっている頃。いきなり電話をしても問題はないだろう。
 電話は三コールで繋がった。
「もしもし、オレオレ」
 まずはベタな挨拶から入っていく。
「私の知り合いに振り込め詐欺師は存在しません。ふざけているなら切るわよ?」
 声質から察するに、香奈は本気でご立腹の様子だ。
「悪かったよ。ちょっと悪ふざけが過ぎた。これからは電話での挨拶でも礼節を正すよ」
 俺は真摯に対応する。
「私はそういうことを言っているんじゃないの!」
 なぜか香奈の怒りのボルテージが上がってしまった。はて、俺は何か失礼なことを言っただろうか。それとも本日の香奈は女の子の日で機嫌が悪いとか?
「おいおい、怒ると幸せが逃げちまうぜ。俺はお前に幸せになって欲しい。よって、お前は怒りを鎮めるべきだ」
 我ながら美しいまでの三段論法を展開し、香奈への説得を試みる。
「アンタねえ、自分のやらかしたことを知った上で、そんなこと言っているの?」
 香奈の質問には断固として『ノー』と答えざるを得ない。だって、俺(というか陽向)が何をしたのか知りたいから電話をしているわけだし。
「その調子だと、俺が何をしたのか香奈の耳にまで届いているわけか」
 ちなみに俺と香奈は学校と学年こそ同じだが別クラスだ。別クラスなので『もしかして香奈では事情を把握できていないかも』という懸念もあった。しかし、どうやら陽向は派手にやってくれたらしく、おかげで別クラスの香奈の聞き及ぶところとなったらしい。
「ちなにに香奈には、俺がしたことはどんな風に伝わっているんだ?」
「アンタがキレて、机を振り回した挙句、担任の頭をぶん殴った――そういう風に聞いているわ」
 香奈の説明を受けて俺は得心がいった。なるほど、そりゃ停学にもなるわ。というか、よく退学にならなかったな。なんとも寛大な学校である。
「香奈は中々の情報通だな。俺は悪いことができそうになや」
 さも訳知り顔で、俺はフォローする。
「アンタは元々悪事ができるほど頭が良くないんだから、大人しくしていればいいのよ。ところでさ、せっかく電話してきてくれたんだから、一つ相談事に乗ってくれない?」
 それまでの怒りに満ちた声から一転、急に塩らしい声の香奈。
「俺は構わんよ。え、何? 恋の悩みとか?」
 半分は茶化す意味で言ったが、これに香奈は、
「そうだよ。私ね、今日の放課後に告白されたの」
「……わお」
 自分の冗談があながち間違っていないことに、俺は驚愕を禁じ得ない。
「でね、問題なのはその相手なの」
「どういう意味だ? ガラの悪い男にでも絡まれたのか?」
「違うの。そもそも、私に告白してきたのは男じゃないの。相手はね、同じ学年の紗坂銀華(ささかぎんか)って女子生徒なの」

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