ムシクイ/第8話

~虫~


「ふざけるな!」
 これに激怒したのは、俺でも香奈でもなかった。意外にも塩町だった。周囲はステージ上で演奏するバンドの音楽が横溢していたが、それを引き裂くくらいに塩町の怒声は大きなものだった。
「なんで塩町がキレるよ?」
 肩を竦める紗坂。
「オレは紗坂に誘われたから、わざわざ時間を割いて来てやったんだ。なのに、他の女に目移りするとは何事だ、ああん?」
 塩町の眼は血走っていた。そこには一種の狂気が孕んでいた。
 ともあれ、塩町の怒りは仕方がないものだ。
 紗坂が他の塩町以外の対象に目移りするのは、塩町としては面白くないはずだ。しかもそれが同性ならまだ男としてのプライドを守ることができただろう。
 しかし、紗坂が狙った相手は女の子だ。つまり、塩町は女の子に好きな女を奪われたことに他ならない。
 好きな女を、女に盗られる。これは普通、男としてはキツイだろう。
「おいおい、いつ私がお前みたいな奴の女になったよ?」
 塩町の恫喝に、しかし紗坂は動じない。
 それどころか、邪悪に口元を歪めている。その様はまるで、闘争を楽しむバーサーカー。
 紗坂は続ける。
「まあ、この際だからはっきり引導を渡しておこう。私はお前みたいな下衆な男は大嫌いだ。むしろ、お前みたいな人間が嫌いと言ってもいい。それとも生理的に無理と表現するのが適切かな。お前が、女は支配するべきものなんていう度し難い考えをしているのは、すでにお見通しだ。お前さあ、自分の薄っぺらさを自覚したことあんの?」
 朗々と淀みなく、歌うように塩町に斬りかかる紗坂。
 塩町は歯ぎしりをしながら、全身をブルブルと震わせている。
「黙れ……」
 塩町は、冥府の暗さの声で紗坂に命令。しかし、紗坂は彼の言葉には従わない。
「私がね、今日のデートのパートナーにお前を選んだのは、男の中でも特に切り捨てやすいからだよ。私は男なんざ大嫌いだが、それでも多少の配慮はしたいわけよ。他の女の子とデートしたいがためのデコイだなんて、相手にとってもたまったもんじゃない。私は恨みを受ける羽目になる。だったらさあ、そんな役は、私が一番嫌われてもいいや、と思ってるドカスにさせるのが合理的だ」
「そして、お前の中でのドカスが俺であった、と?」
 塩町から全身の震えが止まっていた。それまで荒ぶっていた彼がまとう空気は、奇妙なまでに静かになっていた。
「そういうこった。というわけで、お前は今日はもう帰っていいよ。私は無事に二条と落ち合うことができたから、あとは私一人でどうとでもなる。というか、男なんて邪魔なだけだし」
 紗坂は塩町に向かって、しっしと手を振る。まるで虫を払うかのように。
 そんな紗坂の態度に、塩町は笑っていた。
 腹を抱えて、大爆笑していた。
 まるで口腔から悪魔を取り込んだがごとき哄笑。
 ひとしきり笑い終わると、塩町はバーカウンターを身軽な動きで跳び越える。
 そして、カウンター内をまさぐり、鈍色に輝く金属片を奪取した。
 それは刃渡り十センチほどの果物ナイフ。
 凶器を携えた塩町は、今度はこちらに向かってバーカウンターを跳び越える。
 塩町はナイフを紗坂に向けて構える。
「もういい! もういい、もういい、もういい! そんなに俺を侮辱するってんならぶっ殺してやんよ!」
 暴走を開始した塩町。
 それまで紗坂たちの様子を傍観するにとどめていた聴衆たちが、一斉に悲鳴を上げる。
 しかし、塩町を鎮圧しようという者は現れない。周囲はあくまで傍観者にして観客だった。
 ナイフで武装した塩町に、紗坂は一歩たりとも怯まない。
 塩町と紗坂の間合いは、距離にして五メートルほど。紗坂は、塩町から視線すら外さなかったが、涼しい顔で泰然自若としていた。
「自分の薄っぺらさを突きつけられたら、今度は暴力に打って出るか。ますますもって下劣な存在だ」
 やれやれ、と紗坂は首を横に振る。
 明らかな挑発行為。それを愉悦にまみれた笑顔でやってのける紗坂も、ある意味では壊れている。
「まずはその綺麗な顔から切り刻んでやるよ! 泣いて謝っても許さねえ! 俺を侮辱したことを後悔しやがれ!」
 塩町の憤怒が嵐となって吹き荒れる。
「させんよ。この顔は私のお気に入りでね。それに私が傷物になったと知ったら、私のハーレムの娘たちが嘆き悲しむ」
 傲慢な台詞回しだったが、紗坂が言うと様になっていた。
 そして、紗坂は人差し指をクイクイと動かして、塩町を更に挑発。
「こいよ、ドカス野郎。私が叩き潰してやる!」
 闘争を楽しむ悪鬼の形相の紗坂と、憤怒で我を忘れた凶戦士の塩町。
 そんな険呑な二振りの刃が、ライブハウスという本来なら娯楽の目的のための施設内で激突する。
「消えろ!」
 塩町はナイフを振り上げて、紗坂に斬りかかる。その動作に一切の容赦はない。
 しかし、塩町の憎悪は空を切る。
 紗坂は塩町の一閃をひらりと躱す。まるで最初から、ナイフの軌道がわかっていたかのように。
 一撃目を躱された塩町は、がむしゃらに二撃目、三撃目を振りかざすが、どちらも空振り。紗坂は上半身を動かすだけで、襲いくる刃を回避する。
「そんなもん攻撃とは言えねえぞ!」
 四撃目を繰り出そうと腕を振り上げた塩町の鳩尾に、紗坂は裂帛の斬りを浴びせる。
「ぐえっ」
 カエルが潰されたような呻き声と共に、塩町は後方に吹き飛ばされる。塩町の後方にはちょうどバーカウンターがあり、彼の背中は容赦なく打ち付けられる。
 腹と背中にダメージを受けてなお、塩町はナイフを離さない。それは未だ彼の憎悪と憤怒が闘争心へと変換され続けている証拠だ。
「許さねえ。馬鹿にしやがって、馬鹿にしやがって、馬鹿にしやがって!」
 塩町はそれまで右手一本で握っていたナイフを、両手で握り、腰だめに構える。
「顔を切り刻むのはテメエのどてっぱらをぶっ刺してからだ。もう遊びは終わりだと思え!」
 彼の大声は、しかし紗坂に翻弄された今となっては虚勢にしか聞こえない。
 全身の血液が逆流したかのように顔を真っ赤にさせる塩町。対して紗坂は涼しい顔。
「やれやれ。前戯もちゃんとできない奴が、順序をすっとばしてぶっ刺すと来たか! やりたい盛りの中学生かよ、お前は?」
 紗坂のジョークに、観客からくすくすと笑い声が上がる。
 もはや、狂騒は見世物になっていた。
 不謹慎ながら、俺もどこかテレビの向こうの格闘技の試合を見ているような、そんな感覚にとらわれていた。
 紗坂の余裕は崩れない。紗坂の優位は揺るがない。
 ……はずだった。
 俺は耳元でブーンという音を聞く。
 一瞬驚いて目を凝らすと、室内だというのにコガネムシが飛んでいた。赤紫の混ざった光沢の強い緑色が虚空を飛行する。
 虫という存在に、俺はここが闘争の場であるのを忘れ感傷的な気分に陥る。
 虫は、中原陽向が交代人格をつくったきっかけ。それ即ち、俺の人生の始まり。
 脳裏に苦い記憶が蘇る。しかし、俺はそれを強引に無意識に押し戻そうと、かぶりを振った。
 ムシクイの記憶は懐かしく、俺の郷愁をそそるが、今は、紗坂の戦いに集中しなければ。
 あの虫は紗坂の勝負とも、俺の世界とも無関係。
 そんな風に、俺は運命の奇怪さに対してタカをくくっていた。
 けれど、その虫は運命の輪を回転させて、俺と紗坂を否応なしに巻き込んでいく。
 俺の耳元を通過したコガネムシは、やがて紗坂の胸元に着地した。
 それが破綻の始まりだった。
「いやぁぁぁぁぁッッ!」
 女の悲鳴が大音響となって、ライブハウスに荒れ狂う。
 音源は紗坂だった。
 それまでの涼しい態度から一転。大パニックを起こしていた。
 彼女の目には涙が浮かんでいた。
 必死になって、虫のついたTシャツをはためかす。そんなに虫が嫌なら、掴んで投げ捨てればよさそうだが、紗坂はそれをしない。
 ……多分、できないのだろう。
 まさか、女傑・紗坂にこんな少女染みた弱点があったとは。
 多分、彼女は虫恐怖症なのだろう。
 紗坂の涙顔は鬼気迫るものだったが、s俺にはそれが妙に人間臭く思えてしまった。
 なんというか、紗坂の可愛らしい面を垣間見てしまった気がする。
 けれど、忘れてはならない。今は死合の真っ只中であるということを。
「ハハハ、よくわかんねえけど、死ねよ!」
 恐慌状態の紗坂に対して塩町は容赦しない。それどころが絶好のチャンスと解釈し、紗坂に突っ込んでいく。
 ――ぞぶり。
 塩町のナイフは物の見事に腹にめり込んだ。
 だたし、紗坂の腹にではなく、俺の腹に。
 紗坂が刺されそうになる一瞬、俺の体が動いていた。
 俺は紗坂の盾になるような形で、彼女と塩町の間に割って入っていた。
 どうして、俺の体は動いたんだ?
 もしかして、死にたがりの陽向が無意識下で俺を動かした?
 そこまでして、自分をこの世から抹消したいのかよ、陽向。
 腹部に走る激痛は筆舌に尽くしがたい。
 感覚としては『痛い』というより、『熱い』に近い。
 体の中に無理やり焼けた金棒を突っ込まれたような感覚。けれど、当の凶器であるナイフは冷たくて、混沌とした痛みだった。
「ちょ、何で……?」
 紗坂を屠るはずだった凶器が、いきなりの乱入者に刺さってしまったことに塩町は混乱。ナイフから手を離して、怯えながら後退した。
 というか、この程度のイレギュラーにビビるくらいなら、最初からナイフで暴れまわるな。
 痛みから、俺はズレた怒りを塩町に覚える。
 けれど、こういった激烈な痛みを心地よいと思っている自分もいたりした。
 俺って、実はドMなのか?
 激痛は、逆に俺の意識を賦活させる。
 きっと脳内では興奮物質が超過労働を強いられているのだろう。
 知るかそんなもん。
 妙に楽しくなってきた俺は、ナイフが刺さったままで塩町に笑いかける。
 紗坂と塩町から生まれた狂気が、俺に空気感染したらしい。
 狂気が凶器によって、狂喜にへと変ず。なんちゃって。
 下らねえ言葉遊びをする程度に俺の頭は上々だ。テンションも鳴り物入りで上場を果たす。
 自分が犬歯むき出しで笑っているのを自覚する。
 俺は塩町に歩み寄る。
 ナイフが腹部に刺さったままで。
 滑稽なんだか気味が悪いんだか判然としない状態だったが、少なくとも塩町は怯えていた。
 尻餅をついて、俺に対して後ろずさる。
「く、来るな!」
 両手を前に突き出して、俺を静止させようとする塩町。
 そんなヘタレた態度に、俺は呆れ果てた。
 つまらない人間だ。
 まるで、俺みたいにつまらない人間だ。
 俺は嫌悪を爪先に込めて、塩町の横面に渾身の蹴りを叩きこむ。
「ぶべッ」
 塩町の上げた声は、まるで、どこかの世紀末救世主に秘孔をつかれた三下だ。
 けれど本当に痛いのは俺の方だ。だってほら、未だにナイフが腹に刺さっているわけだから。暴力は振るわれた方より、振るった方が痛いってのは、つまりこういうことなのか?
 とかなんとか、馬鹿げたことを考えながら、俺はその場に崩れ落ちる。
 身体だけでなく、意識の方もズルズルと暗い闇へと崩れ落ちていく。

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