ムシクイ/第10話

~本当の強さ~


 紗坂に車椅子を押され、やって来たのは病院の中庭。
 中庭は天上からの光をふんだんに取り込める設計になっている。今日は六月にしては日差しが柔らかい。中庭には穏やかな時間が流れている。
 紗坂は中庭に備え付けられたベンチの前に車椅子を停める。紗坂はベンチに腰掛ける。ちょうど俺と紗坂は面と向かう形の位置関係。その位置関係が対面になるのか、対峙になるのかは、紗坂しか与り知らない。
 紗坂は腕組みをして、更に脚を組む。顔には仏頂面を張り付けている。これからの話は、呑気な午後の語らいになりそうにないのは一目瞭然。
 どうにも、俺は人間関係において地雷を踏む才能に満ちているらしい。
 まさしくもって、口は災いの元。
 気分が萎えるばかりなので、その諺の後に、『ただし、禍福はあざなえる縄のごとし』と付け加えておこう。不幸と幸福は、表裏一体のコインのようなものであるべきだ。
 鋭い顔つきのまま閉口を保つ紗坂。俺は彼女に合わせて沈黙を守る。
 不用意に発言して、火に油を注ぐのだけは勘弁だ。沈黙は気まずいが、耐えられないではない。
 まるで、剣豪同士が間合いをはかるような静寂と緊張。
 幾ばくかの時間の後に、先に鞘走らせたのは紗坂だった。
「お前は、生きるということと、そして死ぬということはどういうことだと思う?」
 紡ぎだされたのは哲学的で、それ故に益体が無いとも評せる問いかけ。
 というか、それを俺に訊きますか。
 俺はあくまで中原陽向の交代人格。仮初の存在で、本質的に生命など宿っていないと自分では考えている。
「――われ未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」
 困った時は、先人の言葉を引っ張ってくるに限る。これはパクリではない。引用というインテリジェンス溢れる行為である。
「女子高生に論語のお説教を振りかざすなよ。普通の女の子は、そんな古くてカビ臭い言葉は知らねえぞ」
 紗坂の顔から、わずかながら鋭さが軽減。
「そういうツッコミができるってことは、今の言葉が孔子のものだとわかるということなんだが? そこんとこどうなのかね、現役女子高生」
 文句を垂れてみるが、紗坂はどう見積もっても普通の女の子ではない。論語の引用に咄嗟に反応できても不思議ではなかろう。
 ちなみに、俺が引用した言葉の意味は『生きているということがわからないのに、「死」が何なのかわかるわけない』というカンジのもの。流石は孔子。言うことが一味も二味も違うぜ。
「私は孔子の言葉ではなく、お前の意見を訊いたんだけどな」
 怒るかと思いきやそうでもなく、苦笑交じりに言う紗坂。
「自分の言葉と言われてもなあ……。それは、そもそも自分というものが無い人間には酷な話だぜ。だって俺、そもそも存在しないもん」
 というのは、言い訳なのかなあ。でも、俺は本心からそうとしか思えない。
「そういうお前はどうなんだよ。お前にとって生きることと死ぬことって、何?」
 自分の答えも提出していないのに、俺は紗坂に訊きかえす。それは明確な逃避行動。
 だけど、紗坂は責めはしない。
 深いため息を一つつくと、厳かに答える。
「生きているとは欲があること。死んでいるとは欲が無いこと――それだけだよ」
 あっさりと、紗坂は生と死の定義づけをしてみせる。
 あまりにも簡素にして空疎な二分法。
 だからこそ、俺は紗坂の定義に魅入られた。
 食欲、性欲、睡眠欲、物欲、我欲、支配欲――人間が持つ欲望を挙げていけばキリがない。それらのものは一般に御するべきものと忌み嫌われる。
 けれど、紗坂は臆することなく、生あることの定義に置いた。
 それは聖人きどりな連中からすれば、極論にして暴論なのだろう。
 だけど、俺はそんな紗坂の竹を割ったような激しさに敬意を覚える。
 なぜなら、それはどう足掻いても、俺が抱けないものなのだから。
「欲は大切だよな。それが無ければ、心に火は入らない」
 俺は、自嘲を込めて言った。
「そういうこった。だからさ、私は母さんにはもっと生きたいと、心の底から願ってほしい。母さんには強欲であって欲しいんだ」
 紗坂は虚ろ気に天を仰ぐ。
「桂子さんの病気って……もしかして、すごく悪いものなのか?」
 いくら俺が地雷を踏む程度の能力を有していようと、空気ぐらいはちゃんと読める。
 紗坂は、頷く。淡々と。能面みたいに感情を押し殺した表情で。
「末期の肺ガン。余命は幾ばくと無しと宣告された。本当は、いつ死んでもおかしくない状態だよ」
 聞き取るのがやっとの、小さく消え入りそうな声。
 俺は、紗坂に掛ける言葉が見つからない。何を言っても、それは気休めにしかならないだろうから。
 何も言えない俺に代わって、紗坂は続ける。
「実はね、ホスピスとかで静かに死を迎えるっていう過ごし方もあったんだ。本人も、死を受け入れて後は、静かに余生を過ごしたいと言っていた。でも、私は……最後まで病気と闘うべきだと主張した。生きることに貪欲でなければならないとか理屈をこね回して、私は母さんに闘病の道を歩ませた。酷い娘だろう? 私はわざわざ母さんに辛い道を歩ませたんだ」
「けど、普通の感覚なら親に少しでも長生きして欲しいものなんじゃないのか?」
 とか俺はあくまで一般論を持ってくるが、きっと説得力はない。
 俺自身は実の親を呪っているし、早く死ねばいいとすら思っている。そんな奴が親の長寿について語るなんて噴飯ものだ。
「普通の感覚も、使い方を間違えればただの毒薬だよ。私は私のエゴで、母さんの長生きを願ったんだ」
 紗坂は苦悩するが、俺はそんな紗坂が少し羨ましかった。
 俺は『俺』を単なる交代人格であると割り切って、苦悩することを止めた。それすなわち、生きることを止めたことに等しい。
 誰かを純粋に想う紗坂は、どうしょうもなく生きている側の人間だ。心に火の入らないまま人生を浮遊している俺には、紗坂の葛藤は何よりも尊く映って見えた。
「私はまだ、母さんに親孝行なんて呼べる上等なことは何一つしていない。だから、もっと長生きして欲しい。生きていてくれなきゃ、これまで育ててくれた恩を返せない」
 頭を抱えながら紗坂は言葉を零す。それは普段は強気な紗坂とは思えない、弱弱しい態度。
 俺は、やっぱり紗坂に何も言ってやれない。
 ふがいなく、情けなく、そして薄っぺらい自分に嫌気がさす。
「なにをそんなに悩んでいるの?」
 紗坂に声を掛けたのは、唐突に現れた人物。
 俺と紗坂は声のする方を振り向く。
 そこにいたのは、看護師の女性に車椅子を押された桂子さんだった。
「ありがとう。ここから先は、身内だけで話したいから、ちょっと下がっていてもらえるかしら」
 桂子さんに言われると、看護師の女性は一礼して病棟の方に戻っていく。
「なら、俺も――」
 桂子さんの『身内だけ』という言葉をくみ取り、俺も退散しようと車椅子に手をかける。
「貴方はいてもいいわ。むしろ、いてちょうだい」
 桂子さんは首を横に振りながら言った。俺は「そうですか」と多少不思議に思いながらも、桂子さんの言葉に従う。
 そんな桂子さんを、紗坂はすがるような眼差しで見ていた。
「母さん……私は……。ごめんなさい……」
 途切れ途切れ紡がれる紗坂の言葉。それは彼女の心が今にも引きちぎれんばかりであるのを映しているようで痛々しかった。
「銀華はまたワタシに怒られるようなことをしたのかしら?」
 今日の日差しのような穏やかさ桂子さん。
「私は……いつだって母さん謝らなきゃいけないようなことをしている。好き勝手に髪を染めて、ピアスも開けて、恋人はいつも同性で、教師からは目を付けられて……。私は、いつだって母さんが誇れるような娘じゃなかった」
 俺は『だったら、もう少し大人しくしてろよ』とツッコミを入れたくなったが、できるわけもない。
 紗坂はちゃらんぽらんにしか行動できない自分に苦しんでいたのかもしれない。
 一見すると自由奔放な女傑である紗坂。しかし、豪放磊落に振る舞う人間が、実は自分に激しいコンプレックスを持っていてもそれは不思議ではない。
 紗坂は湧き上がる衝動の総量に対して、それ引き締めるタガが緩すぎる。それは傍らからしても迷惑だが、何より彼女自身が一番困っているのかもしれない。
「そうねえ。貴女が中学生のときに、家に連れてきた恋人が女の子だったときにはワタシも驚いたわ。それに、貴女はよく問題を起こす子だから何度も先生が家庭訪問に来たわね」
 桂子さんが並べ立てる過去の話に、紗坂は「はい」と頷き、委縮する。
「けれどね、私は一度たりとも貴女を軽蔑したことはありません。結局別れてしまったけれど、貴女は恋人の女の子と真摯に付き合おうとしていました。学校で起こす問題だって、貴女なりの正義に基づいての行動だった。ついでに言うなら学生時代に髪を染めるくらいワタシもしていたわ」
 一つ一つの言葉が、まるで複雑に絡まる紗坂の心を解いていくようだった。
 それでも尚、紗坂の表情は晴れなかった。
 だからこそか、桂子さんは言葉を続ける。
「貴女がこの世に生を受けて、今日まできちんと生きてくれたこと。そして、これからも生きていくこと。それが私にとっての何よりの親孝行よ」
 優しい煌めきに満ちた、桂子さんの愛情。
 さわさわと、穏やかな風が中庭に吹き抜け、植えられた木々の葉を揺らしていく。
 俺には桂子さんが、徳の高い聖者に映ってしかたない。
 もし、中原陽向の親もこんな愛にあふれた人物だったら、彼も違った人生を歩めていただろう。
『俺』などという無意味な交代人格など生み出さずに、光さす道を歩めたに違いない。
 それが俺には悔しかった。
 紗坂は今にも泣きだしそうな顔で、しかし涙は見せまいと必死にこらえているようだった。
 紗坂の泣き顔は、きっとレアものなんだろうが、どうにも似合いそうにない。
「桂子さん、アナタに謝らなきゃいけないことがある。俺、アナタの病状なんて知らないで『早く退院できるといいですね』とか言って、本当に申し訳なかったです」
 俺は桂子さんに頭を下げる。
 紗坂の涙腺崩壊対策のための話題転換。同時に、早く謝って心のわだかまりを軽減したいという意味もあった。
「いいのよ、そんなこと気にしないで。他の患者さんに早く元気になってと声を掛けるのは当然のことよ」
「そういってくれると助かります」
 俺は頭を上げる。
「貴方は本当に優しい子ね。そうだ! もし、ワタシの病状を知らないで退院を祈願したことを気にしているんなら、一つお願い事を聞いてくれないかしら?」
 天啓でも振ってきたように、手を打ち鳴らす桂子さん。
「そりゃあもう、何なりと。やれることなら何でもしますよ。だから、俺がやれそうなことでお願いしますね。やれることしかできないですし」
 俺は冗談めかしてヘタれた言い方をしてみせた。
 けれど、桂子さんはどこか超然とした、けれど真剣な眼差しで告げてきた。
「銀華のことを、これからも守ってほしいの。例えば、変な虫がくっつかないように」
 重力が増すような思いだった。それぐらい、俺にとっては衝撃的な要求だった。
「まるで俺に紗坂のナイト様になれと言っているように聞こえるんですけど?」
 目を幾度となく瞬かせながら、俺は桂子さんに確認する。
「『まるで』ではなく、そのままの意味で、そう言っているのよ」
 俺は大慌てで紗坂に視線を送る。紗坂の方も、虚をつかれた様子で俺の方を見ていた。
「母さん、別に私はこんな奴に守ってもらわなくたって生きていけるわけだが? 私は一人でも大丈夫だよ」
 母親の突然の言い分に、娘は猛然と抗議する。けれど、母親は淡々と首を横に振る。
「いいえ、銀華。貴女は知るべきだわ。自分の人生は一人では支えきれないということを。そして、本当の強さは一人で意地を張ることではないということを」

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