ムシクイ/第18話

~虫食い~


 不意に風が吹いた。風は俺と紗坂の髪を巻き込み、翻弄する。
 紗坂は『虫を胃袋に隠す』などと婉曲な表現を使ったが、俺はもっとストレートに答える。
「正解だよ。俺はあのとき、紗坂にまとわりついていた虫を食った。食っちまえば、虫はいなくなる。実に単純で身も蓋もないトリックだ」
 俺はつかつかと屋上の縁まで歩いていき、転落防止用の金網にもたれ掛かった。錆び付いた金網が軋む。
「言葉だけならお粗末すぎる解決策だ。けどさあ、普通虫なんて食えるものかよ。虫嫌いじゃない一般人でも無理だ。地方の郷土料理でイナゴとか蜂の子とかを食べるものはあるが、あれだってちゃんと調理してから食っている。けれど、あの部屋には調理器具なんてない。つまり、お前はあの気色悪い虫を生で食ったってことになる」
「更に言えば踊り食いだな。口に入れて、噛み砕くまではわさわさと蠢いていたものを頬張るわけだ」
 俺は意地悪く生々しい描写を交えてみせた。案の定、紗坂の顔色が青ざめていく。
「待て、それ以上はリアルに語るな。想像すると吐き気がしてきた。私は、さっき食った弁当と感動の再会は果たしたくない」
 俺に向かって紗坂は掌を突き出す。明確な拒絶の表明。
 ここはあえて静止を振り切って、虫を噛み潰したときの食感や独特の風味をグルメレポーターのごとく解説してみるべきか。
 いや、やめておこう。そんなことをしたら、紗坂から溝内に一撃をお見舞いされかねない。そんなことになれば、俺の方こそ食べたばかりの昼食と感動の再会だ。
「お前が虫を消してくれたから、私はあの部屋から脱出できた。それは認める。虫がいたら、私は使い物にならないからな。けど、そんな理由だけで、普通虫なんて食えるものか?」
 紗坂の問いは至極真っ当なもの。普通の人間は虫を食えない。いや、どこか未開の土地の原住民なら可能かもしれないが、現代の日本の高校生では通常ありえない。
 ならば結論は一つしかないではないか。
「そもそもさ、俺は全く普通の人間ではないんだよ。そもそも交代人格なんてあやふやなものなわけだしな」
「確かに、普通ではないな。私が刺されそうになったら守ってくれるし、監禁された部屋からの脱出に協力してくれるし。だからさ、私はお前が交代人格なんて非常識な存在だとしても、お前のことは他の男どもとは違う存在だとは思っているよ。有り体にいって、好感は持てる」
「……そりゃどうも」
 紗坂の言い方はどうにも素直ではないが、それが彼女のスタイルなのだろう。好意は素直に頂いておこう。それが礼儀というものだ。
 というか、人から好意を示されるのには慣れていないため、背中がむず痒い。それって、身悶えするほどに嬉しいってことなのだろうか。
「んで、話を戻すけど、どうしてお前は虫を食える。悪食にもほどがあるだろう」
 できれば『ゲテモノ好きです』とか誤魔化したかったが、紗坂に嘘をつくのは怖い。それに好感を示してくれた人間を誤魔化すのは気が引ける。
 だから――。
「虫を食ったこと。それが『俺』の人生の始まりだからだよ」
 俺は、一言で言い切った。
 もっとも、あまりに簡潔すぎて紗坂は釈然としない様子だったが。
 そんな紗坂に答える意味で、俺は言葉を重ねる。
「俺の実の父親はね、それはそれは酷い人間だった。ロクに子供の面倒を見ない。暴力なんて日常茶飯事。幼い中原陽向を痛ぶって、楽しそうに笑うような人間だった」
 ムリヤリ外された関節の痛みは未だに忘れられない。そのおかげで今となっても関節の接続具合は不安定で、簡単に亜脱臼してしまう。もっとも、加原邸では脱臼体質が手錠のすり抜けに役に立ったから、完全にマイナスとは言えないかもしれないが。
「うちの父親とはまた別の方向にイカれた人種だったわけか」
 紗坂は忌々しげにギリッと歯を軋ませる。自身が虐待の被害者である以上、自分とは関係のない虐待加害者も許せないらしい。
 羨ましい限りだ。紗坂には虐待に対する怒りが残っている。怒れるということは、言い換えれば正義感があるということ。
 俺は自分の感情を安定させるために、そんなものは捨てた。怒りなんてただのしがらみで、この先生きていく上で邪魔にしかならないと判断し切除した。
「そして、そのイカれた親は、俺――いや、その当時は陽向か――を泣き止まないことへのお仕置きとして、マンションのベランダに締め出した。三日間、中原陽向はベランダで飲まず食わずだ。しかも真夏のクソ暑い時期にね」
「ニュースとかでもよく聞く虐待だな。実際の体験談を聞くのははじめてだけど」
「そんな地獄の片隅で、空腹に耐え兼ねた中原陽向は食料を見つけた。見つけてしまった。それはベランダに止まっていた一匹のセミだった。当時の中原陽向は七歳児。虫は食べるものではないという常識は身についていた。それは人間の食べ物でないとインプットはされていた。けれど、陽向はそのセミを、その虫を食べたんだ。生き延びるために仕方なく。バリバリと、えずきながらも、どうにか嚥下したよ。そうやって、中原陽向は近所の人間が異変に気づいて児童相談所に通報するまでの間、虫だけを食って生き延びたんだよ。けど――」
「完全にはハッピーエンドじゃなかった、と?」
「いかにも。中原陽向には消えないトラウマが残った。灼熱のベランダでサバイバルをしたこともさることながら、仕方がないとは言え虫を食べてしまったことが、彼の中では抱えきれなかった。中原陽向の心は、あの夏のベランダであったことを忘れるために『俺』という人格を作った。俺という人格が虫を食った記憶をすべて負うようにした。――それが、俺の始まりだ」
 初期条件から俺の人生は壊れていた。心が壊れた埋め合わせをするために俺は生まれた。
 存在自体が、心の闇の証明で実証。
 滑稽すぎて笑えてくる。
 けれど、俺は壊れているが故に、社会生活をなんとか営めている。最悪だった人生の始まりを、どうしょうもないことと割り切れるほどには心は歪んでいる。マイナスの心は、マイナスの状況をプラスに解釈してしまう。
 だから自殺未遂を繰り返す陽向の方こそ、正常な心の持ち主だ。幼少期に虐待によって負ったトラウマから精神が不安定になるのは、心として正常な反応。
 俺の心は正常な反応を示すことを放棄した。放棄したからのうのうと生きていられるのだ。
 だったら――。
 紗坂はどうなのだろうか。
 形は違えど紗坂も親からの虐待の被害者。地獄のような幼少期の生き残り。
 紗坂は虫に食われ心に傷を負い、中原陽向は虫を食ったから心を破綻させた。
 けれど、二人には明確な違いがある。
 紗坂は虐待加害者である父親を恨み、その同族である男を嫌悪した。その憎悪はきっと彼女の強さの源だ。紗坂は幼い頃に負った心の傷を生きる力に変えた。
 反対に陽向は、虐待により生きる力を根こそぎにされた。今でも陽向の心は虐待によって焼け野原になったまま復興の目処は立たない。
「虐待から立ち直れる人間と、そうでない人間の違いはなんなのだろう」
 思ったことを、なんの気なしに口にした。何かを口に出す際は、一度頭の中で一周させる癖のある俺にしては珍しいことだった。
 紗坂はしばし黙考した後に、口を開く。
「多分、信じるに足る人間がいたかどうかで分かれるんじゃないかな」
 夜の底のように暗い話題の最中だというのに、紗坂は力強く微笑んでいた。
「お前には、そんな人間がいたのか?」
「もちろんだ。それは私の母さんだ。母さんは変態親父から私を守るために、必死に戦ってくれた。親権を得るために色々な相談機関に掛け合って、尽力してくれた。一人でも信じられる人間がいたなら、どんな目にあっても立ち直れるもんさ。だから、私にとって母さんは生きる意味なんだ」
 太陽のようにまばゆい言葉は、俺の目を眩ませる。
 紗坂の言い分は、きっと正しい。
 けれど、同時に残酷だ。
 信じられる人間が一人でもいたなら救われるということは、逆を言えば一人もいなければ救われないとういことだ。
 陽向にはそんな奴はいなかった。
 虐待発覚後には、親戚中をたらい回しにされて、そこでも邪険に扱われていた。
 そんな状態で誰かを信じるのなんて不可能だ。
 気が遠くなるほどに、陽向は人との縁に恵まれていない。
 けれど、俺はそんなことを口にしない。したところで意味がない。
 昼休み終了の予鈴が鳴り響く。
 俺は紗坂が誇らしげな笑みを湛えたまま、午後の授業に突入できるように、あえて反論せずにこの場をお開きにするつもりだった。
 しかし、運命の神様ってのは、どうしょうもなく性格破綻者らしく、そんなささやかな願いさえ叶えてくれない。
 紗坂のケータイが鳴り響く。
 制服の胸ポケットからケータイを取り出すと、紗坂はそれを耳にあてた。
 通話先の相手が誰か、現時点での俺にはわからない。
 けれど、芳しくないのは紗坂の顔から血の気が失せていく様子で理解できた。
 電話に対して、紗坂は青ざめた表情で「はい、はい……」としか返さない。
 そして、しばらくして通話は終了。
 ケータイをしまうと、よろめきながらこの場を立ち去ろうとする。
 紗坂の後ろ姿に、俺は恐怖を覚えた。
 いつもの堂々とした態度は微塵もそこになかった。
 紗坂がどこに向かおうとしているのかはわからない。
 けれど、放置していい事態とは到底思えない。
「待てよ。一体、誰から、なんの電話だったんだ?」
 俺は紗坂を追って、彼女の手首を掴んだ。
「……病院からだ」
 力なく紗坂は言うが、それでも彼女の声は耳が痛くなるほど聞き取れた。
 紗坂は続ける。
「母さんが発作を起こして危篤らしい。医者の話では、もしかしてこれが最期の発作になるかもしれないらしい」
 掴んだ紗坂の腕が震えていた。
 そんな彼女が俺の方に振り返る。
「どうしよう。母さんが、死んじゃうかもしれない。どうしよう……私は……」
 必死に泣くのをこらえているような顔。唇はわなないていた。
 俺には答えられない。彼女がどうすればいいのかなんて、決められるわけがない。
 けれど、ただ一つだけ俺が言えることは――。
「俺も桂子さんのところに行く。入院中散々世話になったからな」
 俺が行って桂子さん容態が回復するわけではない。けれど、医者のいうようにこれが最後だというなら、俺は桂子さんのところに向かわなければならない。
 もしも、最悪の事態が生じた際は、紗坂の隣には誰かがいてやらなければならない。そうでなかったら、紗坂が芯から真っ二つに折れてしまいそうで恐ろしかった。

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