ムシクイ/第19話

~心なんてないけれど~


 俺たちが病院に駆けつけたときには、桂子さんは既に手術室に運ばれた後だった。
 手術室入口の上部に取り付けられた『手術中』という赤色のランプが点灯する。俺には手術室の扉がこの世とあの世を隔てる黄泉比良坂にみえた。
 桂子さん、あなたはまだ冥府へ旅立つべきではない。
 せめて紗坂が、父親から受けたトラウマを解消するまでは生き延びるべきだ。
 俺がいくら紗坂を支えると決めたところで、それは補助具程度でしかない。
 紗坂を本当の意味で支えられるのは桂子さんだけだ。
 今の紗坂に普段の凛々しさはない。迷子のような弱々しさで、背を丸め呆然と手術室の扉の前に立ち尽くす。
 たった一人で。
 俺がいたとしても、紗坂は本質的には一人なのだ。
 紗坂は強いから一人で全部抱え込もうとする。けれど、人が一人で抱え切れるものなんて限界がある。
 だから紗坂は弱い。
「とりあえず、座ろうぜ。お前は手術が終わるまで、そこで突っ立てるつもりか?」
 俺もしばらくは紗坂の後ろで立ち尽くしていた。しかし、段々と落ち着かない気分に耐えられなくなり、壁際のベンチに腰を下ろす。
「そうだな。ここにいたら通行の邪魔だな」
 覚束無い足取りで紗坂は俺の隣に座る。
 けれど、彼女はベンチに浅く腰掛けた。そんな状態のまま、頭を抱え、
「母さん……母さん……」
 彼女の喘ぎ声は、苦悩というよりは祈りだったのだと思う。
 紗坂の性格からして神様なんてきっと信じていないだろう。まして、宗教なんてクソくらえと馬鹿にしているに違いない。
 でも――。
 紗坂が対峙する世界が、荒れ果てた礫砂漠だったとしても、きっと何かに母親の無事を祈りたいのは当たり前だ。
 なぜなら、紗坂は母親を愛しているから。
 紗坂の恋人でもないない俺は、彼女に寄り添うことすらできない。貧弱な語彙力では優しい言葉すら見つけられない。
 無力感だけが俺にのしかかる。
 だから俺にも、手術の成功を祈るしかできない。
 祈ることしかできない弱さを、紗坂と共に味わうこと。それが唯一俺にできること。
 俺たちが駆けつけた五時間ほど経った後、ようやく『手術中』のランプが消灯する。
 手術室の中から執刀医が現れる。
「紗坂桂子さんの娘さんですね?」
 執刀医に声をかけられて、紗坂は、
「はい、そうです」
 不安げに顔を上げる。
 そんな紗坂に、執刀医は告げる。
「申し訳ありません」
 ――と。
 今の紗坂には、どんな言葉よりも残忍な言葉だった。
 執刀医は深々と頭を下げる。
 だけど、紗坂は執刀医の言葉と動作の意味が飲み込めない様子だった。いや、正確には飲み込むのを拒否しているというべきか……。
 しばし放心する紗坂。
「……嘘だ」
 彼女は、ギクシャクとした不気味な笑みを浮かべた。
 そして、更に続けるのだ。
「おいおい、先生。不謹慎な冗談はやめろよな。本当は手術は大成功で、母さんと一緒に私を驚かそうって魂胆なんだろう?」
 笑いながら、しかし紗坂の目の焦点はどこにもあっていなかった。
「本当に申し訳ありません」
 壊れ出した紗坂に、執刀医は頭を下げることしかできない。
「嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ! お前は嘘をついている!」
 紗坂はよろめきながら立ち上がり、執刀医の襟首を掴む。
「やめろ紗坂!」
 俺は紗坂の腕を掴み、彼女の静止を試みる。
 本来の腕力では紗坂は確実に俺を圧倒する。だから、俺は彼女に殴り飛ばされる覚悟で挑んだ。
 なのに、彼女の暴走は簡単に鎮圧できた。
 俺が紗坂の上に触れた瞬間、彼女はその場に崩れ落ちたからだ。
「嘘だ……嘘だ……嘘だ……」
 うわ言のようにつぶやきながら、紗坂はしゃがみこむ。
 なのに、彼女は涙を流さなかった。本当に悲しいとき、人は泣くことすら忘れるものらしい。

   ◆

 もういっそ、泣いた方が楽なんじゃないかな?
 桂子さんの遺体と対面したときも、紗坂は泣かなかった。
 大切な人がいなくなる痛み。それが俺にはわからない。
 俺にとって離別は解放でしかなかった。俺にとっての最大の離別は、俺を虐待した親との縁が切れたこと。
 絆が切れるということは、自らを縛り付ける鎖が切れることと同義。
 けれど、紗坂親子の場合は違う。
 二人はちゃんと親子で、離れ離れになったら悲しいはずなのに、どうして紗坂は泣かないのだろう。
 俺の中で解けない謎が、深々と降り積もる。
 桂子さんが安置された霊安室を出ると、紗坂は俺に言うのだ。
「お前、もう帰っていいぞ」
 そっけない物言い。紗坂の顔には無表情が張り付いていた。
「でも……」
 俺は何がしかの言葉を紡ごうと試みるが、続きが出てこない。
 でも? だからなんだ?
 ――でも、お前は一人で寂しくないのか?
 ――でも、お前を一人にさせるわけにはいかない。
 ――でも、お前はそれでいいのか?
 どれも違う気がする。
 俺が紗坂のそばにいて、それが何になるというのだ。
 俺には何の力もない。
 紗坂を精神的に支えられるわけでもない。
 無力な人間がそばにいても、紗坂の重荷にしかならないのではないだろうか。
 重苦しい自己否定が、俺の肩にのしかかる。
 だから俺は、
「わかった。あんまり無理するなよ」
 さも紗坂を理解するふりをして、逃げた。
 自分は紗坂のためを思っているのだと自分に嘘をつき、紗坂は一人でも大丈夫だと状況を軽視した。
 最低の気分だった。
 帰路には月も星もなく、薄気味悪い街灯が夜道を照らすだけだった。
 家についても俺は眠れやしなかった。
 紗坂の奴、ちゃんと眠れているのだろうか。
 それとも、桂子さんの死のせいで眠ることさえできないのだろうか。
 ケータイにメールしてみるかとも考えたが、それも今更な気がした。
 結局すべてが中途半端。俺は何がしたいのだろう。
 欠片のまどろみもないままに、朝日は昇ってくる。
 朝焼けの黄金も、今日ばかりはくすんだ灰色にしか見えなかった。
 呆然としながら、俺は自分の部屋で投稿時間ギリギリまで過ごした。
 午前七時半を過ぎた頃になって、俺はようやく動き始める。
 面倒くさいけど、学校にいかないとな。
 けだるい身体を動かして、どうにか身支度を整える。
 自室を出て、今にいる叔父夫婦に一応の挨拶に窺う。
 けれど、今に入った瞬間に俺のけだるさは一気に吹き飛んだ。
 テレビの中に、紗坂がいたからだ。
 俺は頭を横殴りにされた衝撃。
 おいおい、これはどういう展開だ?
 わけもわからず画面を見ると、『国民的作家・時海香子死去』というテロップ。
 時海香子とは、桂子さんのペンネームだ。
 報道陣に囲まれて、紗坂は自身の母の死について説明していた。
 凛とした姿は、気高い華を連想させるが、だからこそ俺の脳裏に一抹の不安がよぎった。
 どうしてお前、そんなに毅然としていられるんだよ?
 強くて剛直なものは、許容量以上の不可がかかると途端にへし折れる。
 ちょっと力学に明るい人間ならすぐに思い至る発想だ。それを人の心に適応させるのは乱暴かもしれないが、俺はそうとしか考えられなかった。
 気づいたら、俺は学校そっちのけで、紗坂のいる病院に走っていた。
 まったく、これでまた欠席日数が増えちまう。本気で留年に王手がかかりかねん。
 でも、そんなものより大事なものがある。
 俺は今一度、テレビの中の紗坂を思い出す。
 どんな荒れ狂う嵐の中でも咲き誇る銀色の華。
 美しくて、ないはずの心が奪われる思いだった。
 だから、俺は走る。
 心なんてないけど。今だけは心なるものを偽造して。

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