ムシクイ/最終話

~火入虫~


 パソコンデスクの脇に置かれたメモ帳から一片の紙を取り出す紗坂。
 彼女は、紙の上でボールペンを走らせる。……お世辞にも上機嫌とは言い難い表情で。
『カイム』の件は、パンドラの箱なのはこれまでの紗坂の言動からは明らかだ。けれど、パンドラの箱には最後に希望が残る。
 希望はいいものだよ。多分最高のものだ。いいものは決して滅びない。
「ほらよ、これがカイムの正体だ」
 ボールペンをデスクに置くと、紗坂は俺に文字の綴られたメモ帳を突きつけてくる。
 そこにあったのは、
『火入虫』
 という呪文めいた単語だった。
 ちょっと強引だが、これでカイムと読むのだろう。
 紗坂はまるで説明責任を果たしたような、すっきりした顔をしていた。しかし、俺にはこれだけの説明では事情が飲み込めない。
「この言葉は、一体どう意味だ? こんな言葉、俺は寡聞にして知らないんだけど。……飛んで火に入る夏の虫と何か関係が?」
「ねえよ! あってたまるか!」
 俺としては冗談のつもりだったが、紗坂の怒りの炎へ大いにガソリンをかけてしまったようだ。
「悪かったよ、そんなに怒らないでくれ。綺麗な顔が台無しだぜ?」
「そんな言葉は男に言われても気色悪いだけだ。大体、お前のキャラにあってないし」
「ですよねー」
 紗坂の口撃は俺のメンタルにクリティカルヒット。誰か回復アイテムを使ってもいいのよ?
「そのクソ忌々しい言葉はな、あのゴミ野郎がつけた私の忌名だ」
 紗坂の言う『ゴミ野郎』とは、実父である加原さんのことだろう。
 でも、『忌名』って何?
 訝しげな顔をする俺に紗坂はため息を吐き、追加説明をしてくれた。
「忌名っていうのはな、要するに真の名前のことだよ。昔はよくあったらしいが、今は廃れてしまった風習だ。私には日常生活する上で『銀華』という名前がある。けれど、これは忌名を隠すための通り名だ。普段使われない――家族みたいな近しい人間以外には隠しておかなくてはならない名前が忌名だ」
「急に世界観が和風ファンタジーになってきたな」
「安心しろ、私は魔法も呪術も使えない。ただ、母さんやゴミ野郎の生まれた地方では、未だに忌名をつける風習が残されていたから、私にも付けられたってだけだ」
「まるでゲド戦記みたいな話だな。あの話もそういう世界設定だったよな。人もモノも真の名前を隠していて、魔法使いはその真の名前に働きかけることで対象に魔法をかける」
「実際、昔は忌名は呪術をかけるには必須のものと考えられていたらしい。だから、忌名はむやみに人前で明かしてはならない。……というものなのにあのゴミ野郎は!」
「無駄に連呼してたな」
 加原さん、本当に駄目な人だな。人にバラしちゃいけない名前を、赤の他人の俺に明かすとは、配慮が足りなすぎる。
「しかも、火入虫って、センスがなさすぎるだろう。虫って漢字が入っているのが特に気に入らない。もっといえば、カイムってソロモン七十二柱の悪魔にいる名前だ。あのゴミ野郎は自分の娘に悪魔の名前をつけたんだ。断じて許すべきものではない!」
 声を高らかにして、紗坂は怒りをぶちまける。
 かなり前に自分の子どもに『悪魔』という名前をつけようとして、役所に却下されたなんて話があったらしい。俺は、それを思い出す。
「忌名が気に食わないという相手に出会うのは初めてだ。まあ、いわゆるキラキラネームで頭を抱えている奴なんて今の世の中いても不思議ではない。そんなに怒るなよ」
「忌名とキラキラネームを一緒にするな! 忌名はな、持つ者の魂を縛り付ける名前なんだぞ。そんな名前に虫がいる。それを許してなるものかよ」
 魂ねえ。
 そんなもの俺は見たことがないから、言及しようがない。
 極めて非科学的で非論理的。もっとも、陽向の交代人格の俺も常識を逸脱した存在なわけなのだが。
 ともあれ、今は紗坂に落ち着いてもらいたいものだ。
 名前に入った虫のせいで、虫の居所が悪くなるなんて冗談としても三流だ。
 そもそも、名前に虫が入っているから駄目という理屈だと手塚治虫はどうなるんだよ。あの方は虫が大好きだから、わざわざ本名の治に虫の字を足して手塚治虫としたんだぞ。
 ……だったら。
 紗坂の怒りを沈める方法は簡単だな。
 俺は、紗坂から渡された『火入虫』と書かれたメモ帳を破った。
 いきなりの行動に紗坂は、目を瞬かせていた。
 けれど俺はかまわず、破った紙の一方を紗坂に渡す。
 紙はちょうど『火入虫』の『火入』と『虫』の間で分断されていた。
『火入』と残った方を俺は紗坂に渡したのだ。
 そして、残った『虫』の方は――。
「いただきます」
 お行儀よく手を合わせて言った。通常の食事ではすぐにがっつく俺にしては珍しい行儀のよさ。
 そして俺は、『虫』と書かれた紙を頬張り、適当に咀嚼して、嚥下した。
 紙って究極的に食物繊維の塊だよね。まあ、生成過程で化学薬品を使っているから健康には悪いだろうけど。
 俺の様子を、紗坂は唖然としながら眺めていた。
 呆気に取られる紗坂に対して、俺は嫌味な笑みを浮かべてやった。
「いいかい、今日からお前の名前は『火入』だよ! わかったね!」
 まるで『千尋』から『尋』の名を奪った湯婆婆のような物言いで言ってみた。
 俺のふざけた発言に、紗坂は半眼で俺を見つめている。
 白けていた。まるで、乾坤一擲の持ちネタが滑ったお笑い芸人でも見るような目。
「はあ……。お前さあ、それって格好つけてるつもり?」
「いや、そこまで大それた態度を気はないんだけど……。ドヤ顔くらいはしても良いのではないかと俺の脳内法廷では判決が出ている。ビバ、表現の自由!」
「異議あり。憲法で保証されていようと、表現の自由には限界がある。お前のドヤ顔は公共の福祉に反する。具体的にいうと私がムカつく。よって、私の法廷では棄却判決だ」
「……うっす」
 まさか、紗坂法廷に逆らうわけにはいくまい。彼女に逆らおうものなら、俺にはきっと死あるのみ。司法ならぬ死法になりかねん。
 紗坂の気分を少しでも晴らそうという心意気で、紙を食べてはみたが、どうにも空振りらしい。
「大体、紙に書かれた文字を食っても、私の頭にこびり付いた『火入虫』の名前は簡単に拭いきれない」
 紗坂は、悲しげに言った。
 きっともう、紗坂には『火入虫』という名前が、それこそ魂のレベルで刻み込まれているのだろう。
 それは強迫観念と言っても差し支えなかろう。
 面倒臭い話だ。
「虫なんて、この世から絶滅してしまえ」
 本棚にもたれ掛かりながら、紗坂は呪詛を紡ぐ。
 ここでいう虫とは、生物学上定義される虫だけではないのだろうな。
 例えば、紗坂に邪な視線を向ける世の男どもだったり、紗坂自身の感情に渦巻く苛立ちといった比喩的な意味も含まれるに違いない。
 完全無欠の美少女で才女の紗坂。そんな少女が虫だけは嫌い。
 それはそれで萌ポイントなんだろう。けれど、彼女に弱みを握られている俺としては、彼女には可能な限りご機嫌でいてほしい。
 だから俺は、一つ提案してみた。
「お前にまとわりつく悪い虫は、全部俺が食ってやるよ」
 ――と。
「は?」
 紗坂はうろんそうな目。
「いや、だって虫を食べる程度の能力は俺の数少ないアビリティなわけだから。だったら、それを有効利用してもいいんじゃないかなあ、なんて思ったわけさ」
「お前って、本当に馬鹿だな」
 また紗坂は白けていた。
 ここは「ありがとう」とか言って一番いい笑顔を浮かべるシーンであるべきだと男の俺は思う。やれやれ、現実は厳しいぜ。
「だからさ、こんな紙切れを渡されても、私は困るんだよ」
 紗坂は『火入』と書かれた紙の断片を、ひらひらと振ってみせた。
 俺としてはいいアイデアだと思っていたので、ちょっとばかりショックだ。
 更に紗坂は続ける。
「いくらお前が虫を食って『火入』になったところで、私は母さんがくれた銀華という名前の方が好きだ。だから、こんな名前は重荷になるだけだ。だからさ、これはお前にやるよ」
 紗坂は憮然としながら、紙切れを俺に手渡す。
「へ?」
 今度は俺が呆気に取られる番だった。
 そんな俺に、紗坂はお構いなしに言うのだ。
「いいか、今日からお前の名は『火入』だ。丁重に扱えよ」
 不敵な笑みが、紗坂に咲き誇っていた。
「えっと、ちょっと待て。どういう意味だ。そんなにホイホイ忌名を譲渡してもいいものなのか?」
「よくはないだろうな。一応は魂の名前なわけだし。でもまあ、お前にならくれてやってもいいかなって思えるんだ。そもそも、交代人格である『お前』自身には名前が無い。私は、自分の忌名が要らない。だったら、ちょうどいいじゃないか。見事なまでのリユースだ」
 自画自賛する紗坂。俺は「さようですか」と苦笑せざるを得ない。
 それにしても、俺の名前が『火入』ねえ。
 ちょっと格好良すぎやしないか?
 火入――火が入るということ。英語で言ったらイグニッション。なんとなく中二病っぽいな。
 だけど、俺は名前が手に入れられたということに、少しだけ胸が高鳴っていた。
 名前をくれる人間がいるということは、『俺』という存在が誰かから本当の意味で認められること。
 俺は交代人格という不確かな存在だけど、それでもちゃんと存在しているような気がして嬉しかった。
「ありがとうな、紗坂。これ大事にするよ」
「好きにしろ。お前の勝手だ。でも――本当にその名前を自分のものにするつもりなら、対価を払ってもらおうかな」
「え、これって等価交換だったの?」
 しまった、これは悪魔との取引だったのか……。
 俺はごくりと唾を飲み干す。
 紗坂は何を要求してくる? 俺を死ぬまで下僕として使役するつもりか?
「これからは、私に悪い虫がついたら、ちゃんと食らい尽くせよ。これはお願いではない、命令だ」
 雄々しい声で紗坂は言うが、妙に微笑ましかった。
「イエス・マム。――これからはこの火入、貴女の傍でムシクイとして仕えさせていただきます」
 俺は大仰に恭しく一礼してみせた。

【ムシクイ】了

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