空色の呪い

 空を眺めていると、俺は一枚の絵画を思い出す。
 その絵画は、一見すると何の変哲もない青空の絵だ。淡い空色の中を、漆喰の白さの雲が気持ちよさそうに漂っている。平和で、平穏で、平静な世界。
 なのに、絵画には奇妙なタイトルが付けられていた。
『呪い』――それが、その絵画のタイトルだ。
 描いたのはルネ・マグリットというベルギーの画家。興味があるなら是非、【マグリット 呪い】というキーワードでネット検索してみるといい。『呪い』がどんな絵かがわかる。
 マグリットは俺が最も好きな画家だ。
 マグリットの作品は、日常にありふれたモノを組み合わせることで不思議な世界を創りだす。それは例えば、林檎だったり、岩石だったり、あるいは青空だったりと、本当に平凡なのだ。なのに、マグリットの手にかかれば、それらは異世界への鍵となる。
『リスニングルーム』という絵では、巨大な林檎が部屋の中に陣取っている。
『ピレネーの城』という絵では、大海原の上空を巨大な岩石が浮遊している。
『大家族』という絵では、曇った空の中に、羽ばたく鳥の形をした青空が現れる。
 マグリットとは、そういった不思議な絵を描く画家なのだ。
 そんな中で、俺が一番衝撃を受けた絵は、やはり『呪い』だ。奇抜なタイトルをつけて、気を衒っただけと言われればそれまでかもしれない。だけど、俺は『呪い』を画集で見たときに、もっと世界を自由に解釈してもいいと言われた気がした。
 文字通り、マグリットに呪いをかけられたような気分だった。
 そこから芸術に興味を持ち始めた俺は、高校で美術部に入部。
 中学時代は教師から問題児扱いされていた俺にしては、恐ろしく大人しい部活選択。
 もっとも、大人しかったのは所属していた部活動だけ。高校生になっても、俺は割と教師の言うことは聞かない生徒だった。
 十八歳になったら、いの一番に単車の免許を取った。校則では禁止されていたが、そんなこと知ったことではない。
 自由に生きる。それこそが俺のモットーだった。
 しかし、自由すぎるというのも考えものらしい。俺は単車で事故を起こして、現在は病院のベッドの上。いやはや、まったくお恥ずかしい。
 俺はベッドサイドの窓から見える空にため息を一つ。
 空というモノに対してはマグリットの『呪い』に思いを馳せつつも、だけど俺にはもう、本当の意味で、あの長閑な青空の絵を鑑賞することはできない。
 ――だって、俺の世界からはもう、青空なんて消え失せていたのだから。
 感傷的な雰囲気に浸る俺。
 いかんな。ただでさえ明るい未来が想像できない状況に置かれているのだから、せめて意識的にはポジティブなことを考えよう。
 脚は骨折しているが、幸いにして両手は動く。
 俺は暇つぶしに用意してもらったスケッチブックに、B4の鉛筆でデッサンを描いていく。現在描いているのはお見舞いにもらったフルーツバスケット。静物の形や影を捉えて、それを二次元たる紙の上に落とし込んでいくという作業は、頭を使うが楽しい行為だ。
 幸いにして、この病室を使っているのは現在俺一人だけ。静かで集中するにはもってこいの環境だ。
 なのに――。
「邪魔するぜ」
 乱暴に病室の扉が開け放たれる。
 入ってきたのは、豹や虎といったネコ科の肉食獣を連想させる女性だった。
「なんの用っすか、大川先輩?」
 俺は女性の名前を読んだ。
「おいおい、随分とぶっきらぼうな挨拶だな。せっかく見舞いに来てやったのに」
 大川先輩は俺の同じ部の一つ上の先輩だ。現在はもう高校を卒業して、美術系の大学に進学しているが、それでもちょくちょく部活には遊びに来たりしていた。
 彼女は、美術部という比較的大人しい印象を周りに与える部において、突き抜けた存在だった。こういう言い方は誠に不本意ながら、俺と同じような人種なのだ。
 彼女のトレードマークは、鮮やかなまでの金髪。別に高校を卒業して、校則の縛りがなくなってから金髪になったわけではない。
 高校時代から、大川先輩の髪は金色だった。勿論、それは校則違反なのだが、彼女は卒業まで金髪を押し通した。無駄に強固な意志を持っているのだ。
 今日も今日とて、大川先輩の髪は黒くない。室内の照明を反射してキラキラと輝いている。
「先輩に、そんな慈悲の心があったとは驚きです」
「お前の中で私はどんなキャラ付けがされているのか気になる発言だな。まあいいさ。今日はお見上げを持ってきている。ほれ、後で存分に楽しみな」
 そう言って、大川先輩が自身のカバンから取り出したのは一冊の雑誌だった。表紙には免責の小さい挑発的な水着を来た女性の写真。
 あえて中身を確認するまでもなく、エロ本だった。
「入院生活で、お前も溜まっていることだろう。私が帰ったら存分に賢者タイムを楽しむがいい」
 そんなことを臆面もなく言ってしまうのが大川先輩なのである。
「えーっと、まあ、ありがとうございます」
 俺は一応謝辞を述べておくが、気分は完全に萎えていた。
「んで、その手に持っているのはデッサン用具一式か?」
 大川先輩は聞いてくる。
「ええ、そうです。特にやることもないんで、暇つぶしですね」
 俺は答える。
「そっかそっか、お前デッサン得意だったもんな。得意な分野はジャンジャン伸ばしていけばいいと思うぞ」
 大川先輩は快活に言う。その言葉に俺は暗い気分になってしまう。
 デッサンはできる。なぜなら、白い紙の上で、黒い鉛筆を使うという白と黒の世界だから。
 だけど、俺ができるのは精々そこまでなのだ。
 絵を描くのは好きだし、絵を見るのも好きだった。
 きっと、俺はこれから先の人生で、絵に関わることが、どんどん嫌いになっていく。絵というものが苦痛の対象にしかならなくなる。
 俺の起こしたバイク事故は、俺の人生に暗い影を落としていた。
「先輩。俺、美術部辞めようと思ってます」
 俺は、自分の考えを端的に口にした。
 大川先輩は、一瞬だけ目を点にしたが、すぐに困ったような悲しいような、複雑な表情をした。
「あえて言おう。今すぐに決断しなくてもいいと思うぞ? 校則を破ってバイク免許を取って、しかも事故まで起こした。確かに学校側からは目をつけられるだろうな。でも、だからって、部活を辞める必要性は感じられないな」
 粗雑な先輩にしては、丁寧さを感じる言葉選び。
 しかし、俺が言わんとしていることは、そこではない。
「先輩、俺は……」
 俺は、アナタに伝えなければならないことがある。
 大川先輩は、何だかんだで俺の師匠みたいな人だ。
 入部したての頃は鉛筆の削り方すら知らない俺に、一からデッサンの基礎を教えてくれたのは大川先輩だ。
 だから、部活を辞めるとしたら、まず彼女に告げねばならない。
「俺は絵を描くのも、絵を見るのも好きです。嫌いになりたくない。俺、これから先、美術に関わったら苦しい思いをするだけだと思うんです」
「どうしてそう言い切れる? そりゃ、技術の向上を目指せば苦しいことだってあるだろうさ。でも、好きなことを自分で禁止することの方が苦しいぞ?」
 先輩は、ひどくあっけらかんと言ってくる。
 俺の事情も知らないで。
 いや、俺の事情を知らないからか。
 俺は自分の事情を説明しようか逡巡してしまう。
 隠していてもいつかはバレる。だから、いつまでも黙っておくのは悪手。けれど、人に伝えるということは、自分で自分の欠損を認めることに他ならない。
 大川先輩に言うことは、自分の身に降りかかってしまった災厄を受け入れる覚悟が必要。
 だから、俺は黙りこくるしかなかった。
 なのに、大川先輩は身の毛もよだつほど優しい笑顔で言ってくるのだ。
「例え、事故の影響で色がわからなくなったとしても、絵を見たり描いたりするのを辞める理由にならないんじゃないかな」
 大川先輩の言葉に、俺は心臓が縮まる思いだった。
 ――色がわからなくなってしまった。
 酷薄なまでに的を射ていた。
 バイク事故によって俺が追ったのは脚の骨折だけではなかった。
 おそらく事故の際に強く頭を打ったのだろう。その影響で、俺は世界にあふれる色を識別する能力を失った。
 俺が今見る世界からは有彩色が奪われ、無彩色に支配されていた。
 何を見ても灰色の世界。
 フルーツバスケットに盛られた果物も、窓から仰ぐ晴れた空も、あるいは大川先輩の髪の色さえも、俺には灰色にしか映らない。
「先輩、どうしてそれを?」
 俺は自身の混乱を収めるために大川先輩に質問した。
「お前が私の髪を見て、何も言わなかったからね。もしかして、色がわからなかったりして、と思ったからカマをかけてみたのさ」
「えっと、言っている意味が分からないんですけど?」
 髪がなんだというのだろう?
「お前さ、私の髪といったら金色のイメージが強いだろう」
「そうっすね。というか、事実、金髪じゃない先輩なんて見たことないですし」
「まあな。中学を卒業してから金色以外にしたことがない。だからさ、今日はちょっと冒険してみたんだ。具体的に言うと、髪の色を変えてみた」
「え?」
「本当は私の髪を見たお前が、『先輩、その髪はどうしたんですか?』みたいに驚くことを想定していた。お前は、そういうリアクションをきっちりする人間だ。にもかかわらず、髪の色はスルー。これは何かあると思わない方がおかしいじゃないか」
 先輩の人を食ったような笑顔に、俺は唖然とした。
 なんというタイミングでの髪色の変更。
「んでさ、さっきの話の続きだけど、別に美術部を辞める必要はないと思うんだ。確かに色が分からないというのは絵に関わる上で大きな痛手だ。でもさ、永久に色がわからないのが治らないとは限らない。それに、色がわからなくても、私はお前のデッサンの技量はスゲーと思ってる。だからさ、そんなに落ち込むな。というか、私が手とり足取り教えてやった絵についてのノウハウを無駄にするのは惜しいしな」
 先輩は一方的に告げてくる。
 俺は、断れようはずがない。
 下手に断ったら先輩からの鉄拳制裁が飛んできそうで怖い。なにより、心から俺を勇気づけようとしている人の意見を無下にするのは心が痛い。
「わかりましたよ。俺、もうちょっとだけ続けてみますよ。まあ、俺にどこまでできるかは未知数ですが」
「未知数、いいね。それでこそ人生だよ」
 先輩のポジティブさには目が眩む思いだった。
「ところで先輩、今日はどんな髪の色にしたんですか? 先にも言ったように、俺、色がわからないんで、判然としないんですけど」
「ん、そりゃお前の見舞いとなったら、お前の好きな色にしてくるのが礼儀だろう。お前、マグリットの『呪い』って絵が好きだったよな。物々しいタイトルなのに、実は青空が描かれているだけの不思議な絵」
「ええ、そうです。……もしかして」
「今日の私の髪のタイトルはズバリ『呪い』だな。この空色のせいで、ここに来るまでは街ゆく人の注目を浴びて、ちょっと楽しかったぞ」
 言っている内容とは裏腹に、大川先輩の笑顔は優しく穏やかなものだ。まるで、マグリットが描いた青い空のように。
 俺はその笑顔に安堵とか羨望を抱かざるを得ない。
 俺は彼女の表情の虜になっていた。
 ――ああ、呪いみたいだな、これは。

【空色の呪い】了

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